「博士の奇妙な問題・第一部ポスドク・ブラッド」の終幕

終演のサイレンを鳴らすのが本書。

博士漂流時代  「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)

博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)

著者はわたしの旧知の友人/恩人でもあり、博士、ポスドク問題を2001年から指摘し続けてきた、元サイコム、現SSA代表の榎木英介医師/博士です。
大学院問題に関しては、水月氏の「高学歴ワーキングプア」「アカデミア・サバイバル」が話題となり、その後も継続的に発言を続けておられます。
しかし、やはり大学院問題の本丸は悪名高き「ポスドク一万人計画」にあるだろうし、このテーマについて語るのに榎木氏ほどの適任者はいないでしょう。
本書には、いわゆるロスジェネ世代として、実際にポスドク一万人計画に翻弄され、博士課程で研究生活を送り、また医師を志し、同時に大学院問題に取り組んできた榎木氏の10年にわたる苦闘と思考と蓄積がこれでもかと吐き出されています。
実にアツい。
長年の活動によって得られた情報が惜しげもなく詰め込まれているので、日本の大学院が現在の状況にいたった経緯はほぼこれで把握できるでしょう。一点、氏の活動領域からややはずれる産業領域との関連についてはもっと掘り下げたいところですが、それにはもう一冊の分量が必要でしょうね。
およそ、大学院、ポスドク問題について語られるであろう意見、論点はここに出尽くしています。
わたしも氏の活動を見てきているので、いまや言いすぎて口の中で発酵しそうな話だけれど、

・まず第0部、プロローグとして、70年代にすでにオーバードクター問題があった。
・これが高成長と好景気によって、うやむやのうちに「解決」してしまう。
・80年代になって、アメリカから「日本は基礎研究にただ乗りしている」として圧力がかかる。
・第一次ベンチャーブーム、バイオブームに乗り、産官学あげて「大学院拡大政策」を発動。
・大学は学生が欲しい。産業はシーズが欲しい。政府は雇用が欲しい。
バブル崩壊。失われた>10年。少子化。デフレ。ベンチャー起きず。
ポスドク問題。仕分け。

という例のストーリーに加え、各所で語られる

・自己責任論
・マッチング論
・政府批判

などなど、もういやになるくらいまとめられています。
欲を言えば、この政策に関わった官僚、大学関係者の声も聞きたいところですが、正直、この手の話はもう本書でいったん〆にしたいですね。
「第一部完!」というやつです。
「次」を語らなければなりません。


榎木氏の持論であるAAAS。会員1000万人を超える、アメリカ、いや世界最大の科学NPOであり、政治にも強い影響力を持つ。
わたしもかなり前にこちらで紹介し、そこそこの反応を得ましたし、そういうものが日本できればいいとは思ってきました。

ただ、仕分けの反応などをみても思ったのですが、これには科学コミュニティがみずから戦略構築する力が必須です。今の日本では、残念ながらそれが足りないと思います。
政治に未来を問う声は大きい。が、みずからこういう未来にしよう、という具体的なビジョンと戦略が、大学や科学コミュニティから出ることはありません。
長期的には云々、という言葉をよく聞きますが、上に見るようにその長期的展望の欠如が現在の問題につながっているのですから。
これではAAASなんて夢のまた夢。
とはいえ、これは単に科学コミュニティの問題というより、日本の民主制のあり方の変革に近い。
たとえばアメリカに「国立大学」は存在しません*1。つまり一律に国(連邦)によって仕組みが決定されているわけではない。
当然、資金も国(連邦)からだけではなく、州や企業、寄付の占める割合が大きい。GFPの下村博士が所属したMBLは、国(連邦)からの資金をあえて入れないことで、研究の独自性を保っているとも聞きます。
アメリカの仕組みを参考にするのであれば、そういうレベルでまったく土台が異なっていることを考えなくてはなりません。
10年やそこらで完成する活動ではないのでしょう。しぶとく生きつつ、じっくりやるしかない。


キーワードとして、中間的な科学、という表現が出てきます。
科学として最先端というわけではないが、社会とのあいだをつなぐ、という意味です。考えてみれば「技術」とはもともとそういう言葉なのでしょう。ただ日本で技術というと、「技の道、匠の道」みたいなニュアンスが入ってしまうのが難点でしょうか。
思いつきですが、中間的な科学をたとえば「グラミン・サイエンス」と呼んでみるのはどうでしょう。
ムハマド・ユヌス氏らによるグラミン銀行は、決して最先端の経済理論を打ち立てたわけではありません。既存の知識、知恵の組み合わせと、現場でのチューニングにより、新たな、大きな価値を生み出しました。
科学者というのは大きな科学理念を追求するように訓練されますが、社会における価値というのはもっと多様です。
世界でもっとも雇用を生み出してきたアメリカの大学院ですら、博士余りの状況をむかえています。おそらく、今後国策によって一挙に解決、ということはありえない。
国の力を使うにしても、科学コミュニティや個々の大学、地域が独自の戦略を持って動かなくては、それぞれの状況の最適解を国がひとつひとつ出してくれることはないでしょう。
分野や地域に応じた「グラミン・サイエンス」を生み出す力が、21世紀型の科学者には必要なのではないか、と感じます。
流動性に関する議論もあります。
もちろん、様々な分野で博士の技能が活かせることは素晴らしい。ただ、上から一律に流動性を押しつけるとロクなことにならないのは、この10年でだいたい見えたのではないでしょうか。それは立場の弱いものの雇用不安定化を招くだけだし、個々の仕事の性質を考慮しない。
もともと流動的な職業もありますが、それらは仕事が標準化されており、異動のリスクやコストが低く、報酬が十分高い場合です。
逆にいえばそういう状況をつくれば、強制せずとも自動的に流動化するでしょう。
個人的には、雇用の流動化ではなく柔軟化、で対応すべきだと思います。雇用そのものは維持しつつ、仕事を柔軟に変えていく。
本書でもコ・サイエンティストという表現で言及されていますが、日本では「研究を取りまく研究者以外の職業」が整備されていない。
研究事務、機器管理、技術の維持継承、広報、特許、産業移転、いずれもプロの仕事となりうる重要な業務です。
これらが「雑用」としてしか認識されていない。このあたりは、日本でのコ・メディカルやパラ・リーガルの軽視ともつながる問題なのかもしれません。
これらの仕事を研究者と対等なプロフェッショナルとして遇すれば、「申請書を10倍通す凄腕研究事務」「共通機器を知り尽くし共同実験のアレンジもできるスーパー技術員」、というルートも現実的になるのではないか。もちろん、研究者自身の意識改革も必要になりますね。


サイエンス・コミュニケーション
従来の「伝える」サイエンス・コミュニケーションに加え、「聞く」サイエンス・コミュニケーションを提案してみます。
どの現場にどういうグラミン・サイエンスが必要かは、科学者から「伝える」だけではわからない。
科学者は、専門家同士、また非専門家に対して「伝える」技術はある程度訓練されますが、非専門家から「聞く」ことには縁がない。
意見に対して「ディフェンス」することは教わるけれど、非専門的な意見を「聞く」技術は教わらない。
もちろんこれは科学者に限った話ではありません。あらゆる専門家に当てはまりますが、ただ顧客と接しない研究者という職業では、特に気をつけたほうがいいでしょう。
たとえば科学者が集まって地域の問題について教えていただく、「リバース・サイエンス・カフェ」もあっていいのではないかと思います。
第二部はどうなるでしょうか。
現実的には、「雇用」と「財源」、そして「コミュニティ」に関する取り組みになると思います。
マネーそのものが日本にないわけではありません。むしろ余っているからこそ、邦銀は国債を買っているわけです。偏ったマネーを足りないところに供給するのは銀行の本来的役割ですが、その能力が衰えている。
眠っているお金を科学技術を介して社会的価値に変えることができれば、科学者の雇用も生まれ、経済も回復する。経済が回復すれば、余裕が生まれて文化的投資も増える。
科学の目的は経済ではないかもしれませんが、経済なくして現代の科学研究は成立しない、という現実は無視できません。
また、国家といった大きなシステムが信用できないならば、結局は人間同士の信頼関係を強めるしかありません。
国家を介する以外の方法で、社会と科学をつなぐ多様な試みが必要になってくるでしょう。
いきなりAAASという夢は難しいと思いますが、現代は明治維新とは逆の時代。
つまり強い中央集権へ向かうのではなく、いかに多様な状況を分散的に解決するか、という時代なのです。
ボトムアップなグラミン・サイエンスがたくさん成立し、それらがコミュニケーションすることで結果的にAAASのようなネットワークが生まれる、というストーリーこそ、現代の「維新」にふさわしいのだと思います。


ながなが書いてしまいましたが、「次」を考えるためのこの一冊。読みましょう。

*1:軍人養成系はある