内集団だらけのアメリカ、寡占状態の日本

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20100522/1274544444

こちらのブックマークでid:crowserpentさんにご質問いただいたので素人なりに少々。
山岸俊男さんの本は今手元にないのでうろおぼえですみませんが、アメリカ人のオープンネスの根拠となってる実験ってどこかの大学の学生を対象にやっておられませんでしたっけ。
実験そのものはとても面白いと思うのですが、やっぱりその解釈って難しいですよね。
はたして、ある大学の学生を集めて実験することで、アメリカ人の異質に対するオープンネスを測れるのでしょうか?
アメリカの大学では、OBによる寄付が大きな財源になっているといいます。それだけ、帰属意識もしっかりしていると考えられますね。各大学も日本よりはるかに多様であり、ある大学に集まる学生には、共通の目的や文化があるとみることも可能でしょう。
つまり、ある大学に帰属する学生を使って実験することは、「内集団の内側での親密さ」を測っている、と解釈した方が妥当なのではないでしょうか。
となれば逆に、アメリカ人は日本人より内集団的である、と結論することもできますね。
留学経験のある先生がアメリカのオープンネスを礼賛する光景はよくみられますが、考えてみればそれは中産階級の上あたりに位置するリベラルな研究者コミュニティの内部」でものごとを見ているに過ぎないのであって、そこからアメリカが一般にオープンで内集団的でない、などと結論するのは早計にすぎるように思います。


さいわい、アメリカの政治制度や文化を長年にわたって研究してきた人たちがいますので、それらを参考にしてみるのも一つの手でしょう。
アメリカ政治制度分析の元祖はトクヴィルでしょうけど、さすがに古いので、たとえばアメリ政治学界の泰斗、ロバート・ダールの一般向け書籍を読んでみましょうか?
その名も「デモクラシーとは何か」。
デモクラシーとは何か
ここには、「アメリカ人は何事に対してもオープンで内集団的な閉鎖性などみじんもない」、などということはまったく書かれていません。
むしろ逆に、アメリカの民主制を支えているのは「多種多様な集団が入れ子状にかつ拮抗して存在していること」、だと結論づけられています。
アメリカにおいて、オープンネスが一つの価値として認められていること自体は確かにそうでしょう。
ただ、それが実際にどのように存在しているか、は別の問題です。
そもそもアメリカは、州政府の集合によって成り立っています。住民自治も強力です。宗教団体だって多いし、たびたび紹介してきたように職能団体だって日本よりはるかに多くかつ活発に運動しています。
内集団だらけといっていい。
なぜこういう状況でオープンネスが価値とされるのか。
それはたとえば、戦国乱世状態にあるマフィア群のボス達が終戦協定を結ぼうとするテーブルにおいて、非武装であることがオープンに明白でなければならないのと似ています。
つまり拮抗する勢力間においては、フェアネスがなければ話し合いにならないということ。カオスのみのジョーカーではダメということです。
内集団だらけであるからこそ、オープンさが価値とされるわけです。
もちろん、内集団には閉鎖性という問題がついて回ります。ハリウッド映画でもそういうテーマは腐るほどありますよね。どこも同じです。
日本とアメリカで違うとすればここで、現存の集団を所与としない。つまり、ある集団の閉鎖性により不利益を受けたならば、新たな集団がすぐに成立するということです。そして拮抗の論理を使い、交渉と調停によって状況を改善する、というのがアメリカ的な方法です。考えてみれば建国からしてそんな感じですよね。


内藤朝雄さんの「いじめの構造」いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)では、内集団の閉鎖性を打破するために上からの強制介入を提案されています。学校という場合に限ればそれも可能かもしれませんが、もし、あらゆる集団の閉鎖性を上から解体しようとすれば、そこには巨大な権力が必要となるでしょう。
そして巨大な権力というのは、もっとも危険な内集団でもあるのです。
むろん拮抗の論理にも落とし穴はあって、集団がそれぞれ原理主義に陥ってしまうと、交渉も調停も不可能になり、単なる戦争状態になってしまいます。
ですから、絶対に譲れない、本当に重要な部分は厳選しておかなくてはなりません。どうでもいいところにこだわって、真に重要な部分を守れなければ無意味ですから。また、最低限のルールを守らない集団とも交渉はできませんね。これらが人権という概念にもつながります。


日本の民主制度がうまくいっていないとすれば、ダールのいうところのこれらポリアーキーというシステムが働いていない点にあるように思われます。内集団を解体しようとして、逆に寡占状態を招いているわけです。
まあダールはややアメリカ礼賛的なところがありますが、そのダールへの批判も辞さないイギリスの政治学者バーナード・クリックですら、「一冊でわかるデモクラシー」
デモクラシー (〈一冊でわかる〉シリーズ)
において、民主制の成功には多様な自律集団の拮抗が不可欠だと論じています。
プラス、両者が共通して必要だとするのは「教育」です。
クリックはシチズンシップ教育」と称していますが、つまり、「集団を形成し、交渉し、調停し、合意を形成する」スキルや姿勢を国民が広く持っていなくてはならないわけです。
これは当然ながら、政府を含め「上からのコントロール」が効きにくくなることを意味します。州と連邦が対立する情景は映画でもおなじみですよね。
しかし民主制でやっていくのであれば、避けては通れない道ですし、そもそもは日本人も持っていた精神であると思います。
民主党が掲げる「新しい公共」がここにつながってくればよいとは思いますが、馬を水場に連れて行くことはできても、飲むのは馬次第。
自律というのはある意味ではコストがかかります。すべて分業して任せてしまった方が「効率」がいいかもしれません。
しかし村上春樹の「ねじまき鳥」にあったように、「効率」というのは方向や目的に依存します。ボートをこぐ方向や目的地が分からなければ効率もイカの頭もない。
「自律」というのは方向や目的を自分で決める、決められる、ということです。
「効率」はその後にやっとあらわれるものなのです。
個人的には、自分で考えて動く人が多い方が経済活動も活発化するんじゃないかと思いますけどね。