書評・生命の研究はどこまで自由か

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生命の研究はどこまで自由か――科学者との対話から

生命の研究はどこまで自由か――科学者との対話から

生命の研究、と題打っていますが、池内了が話者に入っているように、議論は必ずしも生命科学生命倫理に限定されていません。ただ、社会との関わりという点において生命研究は論点が多いので、一つのたたき台として取り上げられている印象。今考えるなら、原子力工学や経済学、疫学なども取り上げるとより深みが出たのではないかと思います。
著者のぬで島次郎氏は社会学者、真木悠介の弟子筋ということで、池内了(宇宙物理学)、長谷川真理子(進化生物学)、勝木元也(分子生物学)、田川洋一(発生工学)といった学者陣に対して、ただインタビューするというよりは、自分の見解をぶつけて議論を引き出すストロング・スタイル。個人的には好きな姿勢です。
4名の学者には、あらかじめ7つの問いが与えられています。
要約すると、

1.自分の専門分野の価値はなにか
2.科学の価値とはなにか
3.科学研究の自由の根拠はなにか
4.科学研究の自由は専門家だけのものか
5.憲法のいう「学問の自由」との関係は
6.生命研究に制約があるとすればなにか
7.科学は本当に価値中立なのか

といったかんじ。
問いとしてはとても面白いと思います。よく見るとなんだかパラドキシカルな項目もありますが、議論を引き出す意味ではいいでしょう。サイエンスカフェなどでもお題として出してみたいと思わせますし、この問いに4人の科学者がどう応えるのか、見ものです。読者も、それぞれの考えがあるのではないでしょうか。

先にも書いたように、著者自身が良くも悪くも立場を持っています。たとえば倫理を「制約」としてとらえている点や、おそらくそのために、科学の内部から倫理が出てくるべきだとする姿勢などがあげられます。
ただここでいうところの「科学」には、科学の方法論、科学者コミュニティ、研究者個人など、いろいろな要素が詰め込まれていて、きちんと論じるならその辺をもう少し切り分けてみるのがよいでしょうね。

いくつか興味深い見解を抜粋してみます。

『端的にいえばピカソです』(池内了
科学が文化として役に立つとはどういうことか、に対して。
科学を芸術に例える方は多いですよね。そういう面はあると思いますが、ピカソよりマティスが好きな人、ポップ・アートが好きな人、漫画が好きな人、いろいろだよね、という話にもなりそうです。

『社会に「ゆとり」と「平等」があること。その二つが初めて同時に揃ったのが、古代ギリシャだったのではないか』(長谷川真理子
科学をやるには、社会にゆとりと平等が必要だという見解に関して。まあ筆者も、古代ギリシャのゆとりは奴隷制に支えられていた点はすぐに指摘しています。
『人に許される自由度は生物の拘束条件の中にあること』(勝木元也)
生命科学と倫理との関係に関して。生物の枠を破るのはそう簡単ではないので、結果的に拘束条件の内にとどまる、ということは十分考えられますが、あらかじめ社会的に「生物の拘束条件」というものを設定することがどのくらい可能なのか、は議論の分かれるところでしょうね。
『研究倫理は、それぞれの指導者の人間性に依存せざるをえない』(田川陽一)
個人レベルの倫理観となると、結局は人の背中を見て身につけるもの、というのはその通りかもしれません。この場合、できるだけいろいろな人の「背中」を見ることができる環境、というのも大事になってくるのかもしれませんね。


なにかの答えを見つける、というにはもう少し掘り下げがほしいところですが、今後の議論を興していくための問題提起としてはいいところを突いているのではないでしょうか。
生命倫理や科学社会論を語ってみる機会がある際には、一度目を通しておくと論点が整理されると思います。