学問に潜む価値判断について

疑似科学、批判、道徳。
や、
dojinさんへの応答
を読んで感じたんですが。
まず、

「科学は価値判断を含まない」

ということ、これは科学とは「地図」であるでも書いたように、基本的には正しいと思います。科学は"How"を明らかにするけれど、"Why"には答えない、というのはつまり、道筋を明らかにはするけれど目的地を決めるわけではない、ということです。
生命や宇宙が「どのように」存在しているのか、存在してきたのかを探る方法ですが、「なぜ」そうでなくてはならないのか、という究極には答えない。
…とはいうものの、主観的な価値判断と科学・学問が無縁かといえばさにあらず。
専攻する分野によって、なんとなく価値観が似てくるというのは経験的にはよくあることですね。
それはやはり、科学といえども単なる分析方法だけではなく、一種の「世界観」、つまり価値判断を予め含んでいるからではないでしょうか。
それが「地図」であったとしても、「目的地」を自然にある方向へ誘導するような書き方は可能です。
例えば生物学。
生物学の科学知識からは、

「生物は子孫を残さねばならないとか、残すべきだ

という「ルール」は一切導かれません。
しかし実際には、生物学者は生物にとっては子孫を残すことが「目的」であり、「適応」であり、「正常」であるとして「扱い」ます。
これは本来は便宜上ではありますが、あまりにも深く自然に浸透した「価値判断」であるため、それが「価値判断」であることはなかなか意識にのぼりません。また、こういう目的論的な表現は結果論的な表現よりも人間にとって理解しやすいようで、プレゼンとしてもついつい使ってしまいます。
mojimojiさんのところで経済学者は「目的」を明示しないというお話をされていましたが、おそらく経済学にも生物学同様、「隠れた価値判断」が内包されているんじゃないかな、と推察します。
例えば「経済規模は拡大または維持すべき」とか、「効用の和を最大に」、とか何とか。
もちろん倫理学にだって何かしらあるでしょう。
こういう科学や学問の「隠れた価値判断」は時に一種の「公理」になってしまっていて、議論の対象として認識すらされていないように思います。
しかし学際、というと陳腐な表現ですが、全てが交じり合っている現実の問題に対処するには、効率のために細分化された学問領域を再び一体にする必要が出てきます。
その際にこういう「隠れた価値判断」を自覚しておかないと、科学的な議論のつもりが単なる価値観の衝突になってしまうこともあるでしょう。
科学的な議論のつもりだからいつかはきれいな答えが出ると思っていても、実際は価値観の衝突なので決して解決しない。
価値観の衝突である場合には交渉と妥協しか手はないんですよね。
こういう事態を避けるためにも、科学や学問に潜む「価値判断」を今一度洗いなおしてみるのも一興ではないでしょうか。