科学の四象限について

ちょっと前の話になりますが、今回の日本のノーベル賞受賞研究が軒並み「基礎」的なものだったためか、恒例の「基礎vs応用」論が局地的に盛り上がったようです。
こちらは去年の記事ですが、科学研究業界の見方としてわりとポピュラーなので紹介します。
基礎研究の反対語は?

基礎研究:すぐ役には立たない、知的好奇心のみ、道楽チック
応用研究:即役立てる、金になる、企業がやってる
そんな拙くもボンヤリしたイメージをもってませんでした?

研究を「基礎←→応用」という1軸ではなく
「基礎←→末梢」「純正←→応用」の2軸で表現する。

この基準で考えることで、いろんな誤解をとくことができる模様。
原理をつきつめていくものが「基礎」で、なんかコチョコチョやってるのが「末梢」
金にならないのが「純正」で、技術に発展し金にもなるのが「応用」

分かるっちゃあ分かるんですが、「末梢」とか「純正」とかいった表現になんとなく発案者の価値観が反映されていてアレな感じがしませんか。
似たような分類ですが、私としては

「抽象度←→具象度」「知のための科学←→人のための科学」

の方がフェアかなーと思います。

てな感じ。実際には対立ではないところもありますが、まあ議論のたたき台にはいいんじゃないかな。
抽象度というのは簡単に言えば統一理論を求める姿勢。一般性が高いものを良しとする科学観。特に物理系には伝統的な価値観といえます。
具象度というのは、現実の多様性をより反映した記述ということ。統一理論は魅力的ですが、実際世界はフラットなわけじゃありません。世界を知る、という観点から言えばその多様性を把握することも重要なはず。
知のための科学、は好奇心駆動、といいますか。世界の仕組みを知ることそれ自体を目的とする科学です。プラトン師匠によれば「真」といったとこでしょうか。多くの研究者があこがれる科学のあり方かもしれませんが、場合によっては社会の価値観と相容れないことも。
人のための科学。科学は知る方法であると同時に、人が世界に立ち向かうためのインフラでもあります。そうでなければ人類も科学もこれほどの発展は遂げていないはず。「役に立つ」科学を卑下する必要は全くありません。
1.抽象度が高く、知のための科学
たとえば素粒子科学は今のところここに当てはまるのではないでしょうか。
2.具象度が高く、知のための科学
クラゲGFPの発見はここに入るでしょう。ただし、現在では強力な応用ツールとしての方法が見出されていますから、3番に入っているかもしれません。しかし当時としてはそこまでの予見はできなかったでしょう。
3.具象度が高く、人のための科学
まず入るのが医学や工学でしょうね。たとえ宇宙的一般性がなくとも、難病の治療法を見つけることには大きな価値があります。ノーベルのダイナマイトの発明などもここでしょう。
4.抽象度が高く、人のための科学
経済学や社会学かな。言語科学や情報科学も入るかもしれません。人や社会に関して抽象的な一般性を見つけようとする科学です。
で、ノーベル賞ですらごちゃ混ぜなんですが、「知のための科学」と「人のための科学」、は目的が違うんですよね。だから厳密には同じ軸で比較できるものじゃありません。また、「抽象」と「具象」も必ずしもどっちが上、ということにはなりません。
ニュートリノ抗生物質と恐竜とグラミン銀行、どっちが上、と比べても仕方ないのです。
どういう科学が望ましいか、はどういう問題意識を持っているか、に左右されるということです。
科学の歴史は問題意識の歴史です。
「日本の科学」、というものを打ち立てたいのであれば、日本としてどういう問題意識を持つか、ということをハッキリさせなくてはなりません。
何を知りたいのか? 何を解決したいのか?
合理性以前の問題意識。ここにこそ科学の「文化性」が現れるのです。