科学とパラダイムのジグソーパズル

どうもはてなでは定期的に科学論が勃興するみたいで、らしいなあと思いつつ、せっかくなんだからぐるぐる回るのではなく、らせん状でもいいので前進できればな、と希望的観測を掲げてみます。
ところで科学論の中で進化論と双璧をなす誤解の二大巨頭といえば、トマス・クーンに端をなす「パラダイム論」でしょう。
たとえば日本の某批評家EAST氏は自称科学哲学出身らしいですが、このパラダイム論の典型的誤用である「何でも都合よく相対化ポストモダ〜ン」で突っ走っているようで、最近は見ていて痛々しいですね。

またEAST氏に限らず、科学批判や相対化の際にもっともよく使われる(そして間違えられる)議論だといってよいでしょう。
では本来的なパラダイム論はどのようなものであるか?
科学をパラダイムで捉えるとはどういうことか。
簡単にですが解説してみましょう。

まず、こちらによると

クーンによれば、パラダイムとは次の2つの特徴を持つ業績の事である。

  • その業績は、「他の対立競争する科学研究活動を棄てて、それを支持しようとする特に熱心なグループを集めるほど、前例のないユニークさを持って」いる。
  • 「その業績を中心として再構成された研究グループに解決すべきあらゆる種類の問題を提示してくれる」

とあります。
なんだかよく分かりませんね。
ごく簡単にいいますと、これは「科学研究の基礎となる世界観」を意味しています。
一口に科学研究といっても、そこには大きく三つのレイヤーがあります。

1.個々の実験や観察からのデータ
2.作業仮説的な科学モデル
3.世界観、パラダイム

私のイメージですが、これらは超巨大なジグソーパズルにたとえられると思うのです。

1.個々の実験や観察はジグソーのピース。
2.いくつかのピースを組み合わせて作るのが「科学モデル」。
3.そしてピースやモデルをいろいろといじっているうちに浮かび上がってくる全体的な絵柄こそが科学的な「世界観」であり、「パラダイム」なのです。

ジグソーのピースは一番「堅い」部分であって、時代を経るごとに蓄積していきます。
クーン以前の科学観では、このピースをどちらかというとよく出来たプラモデルの部品のように捉えていて、一つ一つはめていけば着実に完成形に近づいていくと考えられていました。

クーンが看破したのは、この「完成形」「世界観」というのは、必ずしも一つ一つ組み上げられた中から生まれるものではなくて、不完全なピースの寄せ集めの中からイマジネーションによって予想されるものだ、ということです。
科学において実験や観察や理論的考察は蓄積していくのだけれど、その並べ方によって見えてくる世界観は必ずしも線的に論理的に完成していくのではなくて、人間の想像力によって不連続に生まれるものだということなのです。


分かりやすい例に、プトレマイオスコペルニクス、ティコ・ブラーエ、ケプラーの関係があります。
ご存知のようにプトレマイオスは天動説、コペルニクスは地動説を唱えました。
が、少なくとも当時のデータは論理的にどちらが正しいと決定できるものではありませんでした。何が彼らを分けていたかというと、地球や人間を中心に置くキリスト教的世界観と、太陽崇拝の強いギリシア思想の違いだったということです。
さらに、後に40年にも及ぶ膨大な観測データを蓄積したティコ・ブラーエもまた、天動説を支持していました。
この時点でも「論理的には」、天動説も地動説も可能であり、ティコもまたキリスト教的世界観を支持していたのです。
しかしながら、ティコの弟子であったケプラーはその観測データを受け継ぎながらさらに詳細な検討を行い、より説得力のある「世界観」を提出しました。彼の見出した「ケプラーの法則」は地動説を強力にサポートしたのです。
ケプラーの発見はデータがなくてはあり得ませんでした。
その意味で、科学的発見はやはりデータから生まれるといえます。しかし一方で、ケプラーもまた数秘学的なピタゴラス学派に傾倒しており、その世界観が発見に貢献した可能性も否定できません。


科学的説明というものは単なるデータや論理の積み重ねではなく、人間や社会の持っている世界観に大きく左右される、これがクーンの見出した革命的な「世界観」です。
が、しかしながら。それは決して科学が砂上の楼閣であることを意味しない
むしろ、土台をなす実験や観察といったピースそのものは確かな形で蓄積していきます*1。しかし、個々の実験や観察はあくまで世界の部分を切り取る「ピース」にすぎません。
人は「全体像」を求めるのです。「ひとつなぎの大秘宝」です。
そのためにイマジネーションが必要になるわけです。蓄積されたデータに優れた全体像が与えられた時、科学者はその世界観に沿って研究を進めようとします。それが「パラダイム」なのです。
科学にも価値観や主観が入る余地は沢山あります。確かに問題も山積みです。
しかし、パラダイム論をもって科学と宗教を同一視したり、簡単に相対化できると考えるのはちょっと筋が悪いかと思います。
まあクーン自身もそういう流れを嫌い、後に「パラダイム」を引っ込めて「専門母型」という用語に入れ替えようとしたんですが、それこそ時代の世界観によって「パラダイム論」が一人歩きを始めたということでしょう。
アメリカの科学入門書SFAAには

  • 科学は証拠を必要とする
  • 科学は論理とイマジネーションの混合物である
  • 科学は説明と予測を与える
  • 科学は権威主義ではない
  • 科学は複雑な社会的行為である

とあります。この辺の議論が実に簡潔かつ見事に表現されてますよね。


せっかくなんでここらで過去の科学論関連をまとめておきますか。
いろいろと書き散らしてますが、科学論への入り口等、何かの参考になれば幸いです。お暇な時にどうぞ。
科学の四象限について
倫理の根拠とお水のセカイ(本編)

学問に潜む価値判断について
科学マジックは諸刃の剣?
アメリカの科学教育は76ヶ年計画で着々と進行中。
「科学としての経済学」のトリセツ
「科学モデルの説明」と、「科学モデルを用いた現実の説明」は違うんですよ
進化論が科学であり、ID論が科学でない理由
科学とは「地図」である
科学は必ずしも面白くないし、ロマンティックでもない

パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫 1879)

パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫 1879)

追記皆様、せっかく科学ネタでもりあがっているんですから、この機会に今週末のサイエンスアゴラ&博士プレミーティングでお会いしませんか。今回はかなり自由な形式で行きますので、科学・ニセ科学について語りたい方はぜひぜひ手を挙げてください。科学政策、また博士ネットワークに出来ること、等についてもざっくばらんにお話できればと思います。
なにとぞよろしくお願いいたします。

*1:すなわち、沢山の科学者による日々の地道な研究こそが科学の最大の強みなのです