日本はそろそろノーベル賞のクレクレをやめてもよい国だと思う

今年のノーベル賞はいろいろな意味で興味深かったし、質の高いエントリが沢山書かれたと思います。
研究の奥深さや学問の素晴らしさがアピールされる一方、ノーベル賞の不完全さにもスポットライトが当たった点が特に面白かったですね。
例えばこんな記事たち。
Douglas Prasher博士のケース、ノーベル化学賞の裏側で

このかたは、下村博士のおられたところ同じ海洋研究所にいて博士がみつけたGFPタンパク質の遺伝子をつかまえてその配列やアミノ酸配列を決めたものでした。
それで、まさにこの遺伝子をもちいてチャルフィー博士など今回の受賞となった研究をしようとしたのだけれども、継続困難で、研究費を打ち切られ職もうしなってしまったのだそうです。

日本にノーベル賞が来た理由

戸塚洋二博士(1942-2008.7.10)です。戸塚さんこそ、ノーベル賞をもらわないわけにはゆかない人でした。

なぜ「大してうれしくない」か

つまりだ。これは三人ともいえるが彼らはノーベル賞が来たことによって自分たちの研究が評価されたことが分かるレベルの人々ではないのだ。それどころか、ノーベル賞をとっていないことによってノーベル賞物理学会の最高の賞と呼ぶには躊躇するよね、と思わせるほどなのである。

そう、ノーベル賞はもちろん意義深い賞ではあるけれど、制約や間違いも普通に存在する一つの評価基準にすぎません。確かに無名の田中さんを探し出してくるとかニクいところもあるんですが、人工癌とかロボトミーとか、いろいろポカもあるわけです。
なにより人数制限はありますし、亡くなった人は無視される。
それはノーベル財団という一つの団体が出す賞なのだから仕方がないのですが、しかし日本という国家が国として「ノーベル賞30個!」を目指すのってどうなんでしょうか。

平成18年3月に閣議決定された第3期科学技術基本計画においても、第2期科学技術基本計画に引き続き、「50年間にノーベル賞受賞者30人程度」という目標に言及しています。

発展途上にある国なら分かります。ノーベル賞は科学技術を導入し、国民を鼓舞する大きな励みになるでしょう。
しかしそろそろ日本はサイエンスを「いただく」側から「生み出す」「与える」側に移ってもよい頃あいではないでしょうか。
ノーベル賞にしろ、あるいはNature、Scienceにしろ、素晴らしいメディアではあるけれど、国の科学評価が海外の雑誌や財団に頼りきっているという状況はそろそろ変わってもいいでしょう。
そのためにはノーベル賞やNature、Scienceに先立つような学術賞や学術誌、「これを取ったらノーベル賞も確実だね」、いずれは「ノーベル財団より見る目があるよね」、といわれるような目利きを育てていかなくてはなりません。*1
いつまでも褒めてもらうのを待っていてはいけないように思うし、堂々と自ら価値を判断し、むしろ相手を褒めることの出来る立場に立ってこそ日本のサイエンスは一人前、といえるのではないかと思います。


追記
ips騒ぎの時にも思ったのですが、アメリカなら山中先生のラボでヒト細胞に一年先駆けてマウスの結果が出た時点で、研究と知財の大規模プロジェクトが動くでしょう。重要な芽は、特にビジネスにしたいなら発表されてからでは遅いのです。
基礎にしろ、実用にしろ、「目利き」がとにかく足りない。日本の科学を何とかしたいのなら、まず手を打つべきはこの点だと思います。

*1:イグ・ノーベル賞はセンスあるよね