モデルが最初から転がっている不幸
新しく発見された「細部」は、今度はそれがどう効くのかが論じられた後、 そこから生まれる市場に応じて「そこに効く薬」がデザインされて、 「効く薬」として発売される。*1
進化論が科学であり、ID論が科学でない理由や「科学としての経済学」のトリセツでも書きましたが、科学の重要な手法の一つである「モデル化」というものは、複雑怪奇曖昧模糊とした現実世界を「抽象」して生み出されるものです。
それは決して現実とイコールではない。けれどもうまく使えば、現実のある部分をうまく切り取ることが出来るかもしれない。そういうものです。
洋々たる具象の現実を目の前にして、それを理解したい、何とか人知でねじ伏せたい、というプリミティブな科学的衝動。それがあれば、現実の複雑さと豊穣さを腹に持ちながら、ある種プラグマティックな姿勢で科学に向かうことが出来るでしょう。
しかしながら、現代という時代には最初っから大量の「モデル」が転がっている。現実の深さを身体で覚える間もなく、ごろごろとモデルを頭に流しこまれるのです。
多様でナマナマしい生物界について深く考えるヒマもなく、培養細胞やモデル生物に没頭する。
複雑に絡み合った価値と社会の混沌に思いを馳せる前に、経済モデルを叩き込まれる。
あらすじを読んで映画を観た気になる。あるいは楽譜を眺めてジャズのライブを聴いたつもりになるのと似ています。
ここに、世界と科学の乖離が生まれてしまうのでしょう。
巨人の肩に乗ることを許された現代の科学者は幸運にも遥か遠くを見通すことが出来ます。がそれゆえに、巨人の足元がどうなっているのかについて考えることを忘れてしまうのです。
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*1:もちろん治験があるので本当に理屈だけで通ってしまうわけではありません。とはいえ、いろいろな政治的バイアスがかかるのも確か。