一連の生産性論争を見て、「ホワイトカラーの生産性」を改めて考える

こちらこちらでここ一連の「生産性論議」をまとめて下さっています。
いやーなかなか壮観ですよね。
おそらくは日本でもトップクラスの「ホワイトカラー」達が、これほどの言葉と時間を費やして「生産性と経済」について激論する。
外野としては見ているだけでも楽しいです。
が、しかしながら。
終わってみてよく考えると、かかったコストの割りには「何かがクリエイトされた」感じとか、「状況がぐいっと進んだ」感じがしないように思いません?(私だけかもしれませんけど。)
これはつまり、議論がディベート的になってしまったためではないかと思います。
ディベートというのは「討論」、つまり相手を打ち負かすのが目的。自分の立場を最大限大きく正しく見せ、相手をできる限り小さくつまらなく見せる。ですから最終的には印象操作であり、政治闘争になってしまいます。要はゼロサムになってしまうのです。
選挙のような「潰し合い」の場面では非常に有効ですし、身を守るためにも習得しておくのがよいと思いますが、「現場の問題解決」には残念ながらあまり役立ちません。
一般論として、頭の回転の速い優秀なホワイトカラー達が集まって激論しているといかにも「生産性」が高そうに見えますね。でもそれがディベート的な潰し合いをしているのであれば、正直時間のムダというものでしょう。「朝生」とかその典型ですが。
ホワイトカラーの真の仕事とは全体状況の把握であり、価値の判断と創造であり、方針の決定なわけです。そういう場合に必要なのは率直な「ブレスト」であり、誠実な「ディスカッション」です。
個人の「生産性」を高めることは大事です。頭もどんどん鍛えるべきだ。ITも重要。論理も大切。
でも集団においてその使い方を誤ると、とってもモッタイナイことになるかもよ、というお話でした。


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