労働で好きを実現しろオアダイ

みたいになってません?なんとなく。
いろいろやるにせよ、何かを選択するにせよね。
好きがどうたらって話は昔いくつか書いたし、誰にいわれなくとも人は好きなことがしたいわけだ。誰がどう生きようと他人の人生は他人のものですしね。
ただ黄昏時とはいえ仮にも21世紀のトップクラスの先進国で、好きだの幸福だのが「労働」の文脈でしか語られないってのはどうなんでしょう。
個々人の生き方がどうこうよりも、私が気になるのはそこですね。
「労働」てのは基本、世の中の需要に応えて対価を頂く作業で、まあそれを楽しむ術もいろいろあるとは思います。もし幸運にも「自分の好きなこと」「自分のできること」「世の中の求めること」が全て合致し続ければ一番よいのでしょうが、それでなければ不幸、好きなことができない、というのは人類が何千年も求めて作り上げてきた世の中なんですかね。
例えば労働でない「活動」というものもあります。
アインシュタイン相対性理論も、アンリ・ルソーの絵画も、もちろんLinuxだって「労働」から生まれたものじゃない。彼/彼女はそれで食っていたわけじゃない。「労働」は「労働」として別にあった上で、本当に自由に「活動」した中から生まれたものたち。無理やり自分の「好き」を矯正したのでもなく、市場や需要の影響も受けることがない「活動」から生まれた価値。労働ではなくとも立派な「仕事」です。
以前書いたように、Web上でやり取りが可能な「労働」の多くは今後「労働」としての価値を減らしていきます。特に「芸術」は食うための労働としては今後どんどん厳しくなるでしょう。
しかし「芸術労働」は廃れても、「芸術活動」はうまくやれば素晴らしく発展するはずです。絵を生業としなかったルソーや山下清ら「素朴派・ナイーヴアート」の絵画が、マーケットを計算しつくした村上隆の作品よりもはるかに豊かに感じられるように*1。そして多分、学問やいくつかの社会活動にもそういう可能性があると思います。
「労働」を楽しむ術はあって当然だと思うけれど、人生を全て「労働」に回収しなければならないという事態そのものに対してもっと異論があってもいいのになと思います。ブログってのはまだ「活動」、ですよね?


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*1:圧縮新聞とかいいよね。