「世の中は変えられないから自分が変わる」という人は自分で檻を作って自分で檻に入っている
といえるのかもしれません。女性に限らずね。
自分で檻を作って自分で檻に入った奇妙な獣
社会システムというものが権力によって構築されるとするならば、その仕組みは当然、権力を利するようになっているはず。
つまり権力を持たないものが単純にシステムに「適応」することは、権力者を直接間接に利することに他ならず、「自分の首を絞めている」と見ることも可能です。
そうはいっても、目の前の権力や強者やシステムに適応・迎合した方が都合がいいという判断は個人・短期のレベルでは十分にありえます。
- クラスでは空気に合わせて道化を演じた方が居場所を確保できるし
- 職場ではサービス残業に励んだ方が上司の心象がいいし
- アメさんに成果主義といわれれば成果主義、フラット化といわれればフラット化を所与にしておいた方がいいだろう
そして
- 男性がカネや権力を握っているなら、それを男性と奪い合うより共有する立場に立った方がトクだろう
というのも一つの適応戦略ではあるでしょう。
もちろんこれらの適応で幸福な人生を送れるのかもしれません。ただし、システムをコントロールする立場からは遠ざかることになるし、長期的あるいは全体の戦略として正しいとは限りません。
とはいえ結局のところ、力を持たないものが一人でシステムや権力と戦っても敗北は必至。
組織的に、かつ粘り強く交渉を続ける覚悟と意志がなくてはどうにもならないというのは本当でしょう*1。
そう考えると、男性がほぼ100%の権力を握っていた時代から長い長い運動を経て、とうとう女性大統領候補すら生まれるような現代を作り上げたフェミニズムというのは想像を絶するなあ、と私なんかは素直に畏敬の念を抱いてしまいますね。
ただ政治の基本は変わらないとはいえ、表出手段は時代によってどんどん変わっていくもの。フェミニズムにしろ何にしろ、旧態依然とした表現を使っていてはうまくいきっこないでしょうね。
結局、「自分の首を絞めている」のは何も女性に限ったことではない。
自分(達)の力でシステムに関与しようとせず、ただ強い流れに乗り流されることを是とするならば、それは皆「自分で作った檻に自ら入る」ことだというべきではないでしょうか。