努力を支える努力、ということ

先日、就職活動で長く苦戦していた芸術(絵画)系の後輩がなんとか食えそうな仕事にありついたようで、とりあえず一安心。
まあ専門ドンピシャというわけではないけれどまずまず技術も活かせそうだし、なにより「仕事サイクル」に乗れたことがよかった。バイトだけだとジリ貧ですからね。
彼は何度か賞を取った事もあるし、才能は間違いなくあると思います。もちろん努力もずっと続けていた。ですが生活を支える仕事にはなかなか恵まれませんでした。
今回彼がその仕事についたのは当然そういった努力が実った、ということもできるしその通りだと思いますが、そこに巡りあわせというか一種の偶然が働いたことも否定できません。
ある人物に出会い、ある話をしなければこの就職はありえなかった。
特に意図的に異なった工夫をしたわけではありませんが、ちょっとしたきっかけから、彼の努力や才能が報われることになったのです。
そしてまた、彼の努力は彼一人のものではありません。
私も含めて、周囲の人間がずっと金銭、知識、思考、時には衣食住にいたるまでサポートし続けてきました。だからこそ、彼は彼の領域で努力することが出来、「出会い」の日まで頑張ることが出来たのです。
彼は才能も努力も兼ね備えていましたが、実際にそれが世の中に価値として、富として現れるには、「運」と、それに出会うまでの「サポート」が必要だったのです。
「99%の努力と1%のひらめき」はエジソンの言葉ですが、同様に、世の中に価値を生み出すには「99%の努力と1%の運」が必要です。
99%努力しても、最後の1%の「運」に出会うまでに力尽きてしまえば、そこに「価値」や「富」は残らない。時間も努力も才能も無駄になってしまいます。実にもったいない話です。
だからこそ、周囲の「努力を支える努力」が必要なんだと思います。
努力は才能だともいいますが、「努力する対象」にもやっぱり向き不向きがあります。
上の彼は不得意な分野をサポートしてもらえたおかげで得意な分野で努力でき、才能や努力を世の中に還元することが可能になった。
お上にしろ経営者にしろエライ人にしろなにかというと「努力しろ」と突き放すような話が多い昨今ですが、そこにどれだけ「努力を支える努力」があるのか。
努力できる分野、あるいは努力できるやり方で努力したい人は多い。それはサボりたいといっているわけではないのです。もちろん何もかも都合よくはいかないのは当たり前ですが、それにしても、単に「努力が足りない」と突き放すことで数え切れないほどの価値や富を失っている気がしてなりません。


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