NATROM氏『化学物質過敏症は臨床環境医のつくった「医原病」だと思う』等について

NATROM氏の主張『化学物質過敏症は臨床環境医によってつくられた「医原病」だと思う』への批判
http://togetter.com/li/517251
筆が滑るということは誰でもあるし、そういう時は基本的には訂正すればいいことだと思いますが、その後の展開をみるつけ、これは単なる「ひとこと」の問題ではなく、難病や公害に対する基本的な姿勢の問題であるとみることができます。それらに向き合う患者や医師、研究者に対する誤解と軽侮に満ちたこれらの発言を放置すると、根本的にあやまった情報を広めることにもなりかねないので、ここで指摘しておきます。


まず勘違いがあるかもしれませんが、疾患概念や病名というものは、研究室で詳細な機序がわかってから初めてつけられる、という類のものではありません。
当たり前ですが、疾患概念に先立って、まず症状や病気や患者があります。多様な症状や病気や患者に対してなんとか対処しようとするとき、共通点を見つ けて、分類し状況を整理しようとするわけです。
概念にしたがって症状があるのではない、まず雑多な症状が先にあるのです。
ですから、一つの概念でなんの取りこぼしもなく病気を表現できるわけではないし、知見の発展につれて変化したり、細分化したりします。
大きくいって、疾患概念には二つの基準があります。病因基準と、外徴基準です。簡単にいえば、前者は病気の原因からつけられる病名、後者は症状からつけられる病名、ということですね。
たとえば『ヒ素中毒』は前者であり、『気管支炎』は後者といえます。とはいっても、すっぱりきれいに切り分けられるものでもなくて、たとえばヒ素中毒も、原因がヒ素と判明して初めて使える概念であって、わかる前には症状で表現するしかないわけです。
その観点でいえば、『化学物質過敏症』は前者『病因基準』にあたるといえます。しかし、その原因である『化学物質』やその機序についてはまだはっきりわかっていません。
であれば不適切な名称か、といえば必ずしもそうではありません。機序はわからなくても、少なくとも疫学的には、『なんらかの化学物質による微量の曝露が原因であろう』と疫学的にとらえられるケースは報告されています。
Chemical sensitivity: pathophysiology or pathopsychology?
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23642291(総説)
たとえば日本における化学物質過敏症の地域例として知られる杉並病では、区の調査結果から疫学的にはゴミ中継所からの排出物質が原因と考えるのが妥当とされ、公害等調整委員会もそれを認めました。
では詳細な物質や機序がわかるまで、棚上げすべきでしょうか? その姿勢こそ水俣病対策が遅れ被害を広げた原因だと、著書『医学者は公害事件で何をしてきたのか』において、疫学者の津田敏秀氏は述べています(以下引用はこちらの本から)。

医学者は公害事件で何をしてきたのか

医学者は公害事件で何をしてきたのか

水俣病では、魚介類を食べることと発症の関係は1956年という早い段階で判明していました。津田氏は、この時点で水俣湾の魚介類に関する中毒としてとらえていれば、食中毒事件として被害を食い止められた、とします。しかし詳細な原因物質や機序がわからないことを理由 に、禁止措置など食中毒事件としての対策がとられることはなく、被害は広がっていきました。

そして先の杉並病でも、疫学的な相関を指摘されながらも、同様に詳細な物質がわからないことを理由に現状維持が図られつづけています。

このように、詳細な物質や機序がわからなくとも、なんらかの化学物質への曝露との関連が報告されている以上、『化学物質過敏症』として対策を行うことが不適切だということはできません。
たとえば『金属アレルギー』という概念があります。金属といってもあらゆる金属に反応するわけではありません。金属は人体にもともとたくさん含まれている 成分です。アレルギーといっても金属に対して通常の抗原抗体反応が起こるわけではありません。正確な機序は最近までわからなかったし、現在でも不明な点は 多い。などなど、不正確といえば不正確ですが、ただ不正確というだけでは 不適切な概念とはいえないでしょう。ひとつの概念で病気を表現しきることはできません。『糖尿病』の原因は尿とは直接関係ないし、「糖尿」そのものも副次的な症状にすぎません。糖分のとり過ぎとも直接は関係ない。一型糖尿病と二型糖尿病があり、原因も異なります。
疾病概念は病気に対処するための手段であって、状況によって変化しえます。化学物質過敏症にも本態性環境不耐症という別称があり、こちら が使いやすいのであればこちらを使えばよいでしょうし、よりふさわしい概念があるというならば、根拠と共に提唱すればよいでしょう。


もちろん、疫学的な結果だけではなく、もっと詳細な機序を探ることは大切です。
しかし、公害の多くはそうですが、環境要因の寄与があると思われる、人間の患者自身を使った研究には、多くの制限や困難があります。
神経において器質に大きな損傷を示さなかったり、高次機能に関わる症状の多くは、マウスのような実験動物で検出するのは難しい。発症に時 間がかかったり、慢性的に進行する症状であればなおさらです。
そこで患者自身を対象とした研究、となりますが、まったく当たり前のことですが、患者は実験動物ではありません。
負荷試験と簡単にいいますが、患者に病因となる負荷をかけて実験すること自体、通常では行わない行為です。文字通りの人体実験であって、負荷が大きくな らないよう、最大限の慎重さが求められます。
そういった実験的な負荷試験が、本来の条件を正しく反映しているかどうかはそう簡単にはわからない。
そもそも新たな病気に対しては、どういう検査や試験が適切であるか、ということを検討するところから研究がはじまる。それらが十分確立していな い段階で負荷試験で差が出ない場合があるから心因性、というのは飛躍しすぎです。
また、めまいや頭痛のような、外見的に「非特異的」な症状は、複数の要因で起こりえます。
つまり熱が出たからといって根本的な原因が同一ではないように、末端の症状が同じ、または同じようにみえても、もともとの要因が同じであるとは いえません。
たとえば水俣病関連でも、糖尿病や脳血管疾患の既往があると、症状はそれらのせいであるとして水俣病を否定できるかのような誤った言説がある、 との津田氏による批判があります。これらの「非特異性」によって、非典型例とされた神経症状への認定が行われないことが、今も水俣病患者を苦しめています。

水俣病問題に関する解説的意見書
http://www.okayama-u.ac.jp/user/envepi/dl/13_20120217.pdf
糖尿病や脳血管疾患などは、水俣病と同様あるいは同様にみえる非特異的症状を持つが、それによって水俣病を否定することはできないということです。

したがって、プラセボで「症状」がでることをもって、もともとの「症状」が心因性であるということはできません。
あるいはプラセボでは出ないような、強い条件でたくさんの実験すれば、区別できるかもしれない。しかし再びいいますが、患者は実験動物ではありません。水俣病認定のために、患者に工業排水を飲ませるようなことはありえない。
もちろん、複合的な症状である可能性はあるが、まともな医療においては、心因性というのは最後の可能性として主張されるべきもので、研究途上、 進行中の公害において心因性を安易に持ち出すことの危険性は歴史が示しています。
患者は当然のことながら、実験動物のように規格化されているわけではありません。遺伝的に均一化もされていないし、生活環境もそれぞれ異なります。患者全 体に効くようにと創られた医薬品ですら、患者それぞれの遺伝的生理的バックグラウンドによって効果が異なる、というのは現代では常識です。であ れ ば疾患を引き起こす因子においても同様に患者それぞれのバックグランドが影響します。これらも、個々の実験によって結果がばらつく要因になります。
特に神経の機能に関する影響の検討は、有用な指標やマーカーなどを見つけるところからが課題であり、非常に繊細かつ時間と手間がかかる分野です。
だからといって「反証不能」「研究不能」だ、というのは浅はかです。時間はかかるでしょうが、さまざまなデータが蓄積してくるにつれ、プロトコルは 徐々に改善され、症例のさらなる分類が可能になってくる。研究はそうやって進むものです。
公害のように環境要因の寄与が疑われる病気の場合、歴史上明らかなように、原因物質や機序や条件の検討自体にも時間がかかります。
あらゆる条件 を同時に検討することはできないので、考えられるメカニズムなどから一つ一つ可能性を検討していくしかありません。もちろん要因はひとつであるとも限らないし、 非常に気の長い道のりである。その途上では差が出る条件、出ない条件、複数見解があって当然です。
水俣病は公式発見から60年近く たった現在でも、汚染から発症にいたるまでの正確なメカニズムは明らかではありません。
これらは研究上の困難ではありますが、科学的に反証不可能であるということを意味しないし、対策が取れないことも意味しません。
こういった複雑な事情も含めて、まじめに病気に向き合おうとするなら、たとえば2010年にオーストラリア政府がまとめたレポートが参考になるでしょう。
A SCIENTIFIC REVIEW OF MULTIPLE CHEMICAL SENSITIVITY: IDENTIFYING KEY RESEARCH NEEDS.
http://www.nicnas.gov.au/__data/assets/pdf_file/0005/4946/MCS_Final_Report_Nov_2010_PDF.pdf
関連する要因として、以下のものが指摘されています。
・Immunological dysregulation
・Respiratory disorder/neurogenic inflammation
・Limbic kindling/neural sensitisation
・NMDA receptor activity and elevated nitric oxide and peroxynitrite
・Toxicant-induced loss oftolerance (TILT)
・Altered xenobiotic metabolism
・Behavioural conditioning .
・Psychological/psychiatric factors


ところで、NATROM氏の「化学物質過敏症は臨床環境医のつくった医原病」というのは病因基準にもとづいた疾患概念の提唱ですね。
病因は「臨床環境医」であり、メカニズムの説明も以下のようになされています。

https://twitter.com/NATROM/status/343369547455270912
化学物質過敏症患者が反応する対象は患者の恣意によって左右されている」というのは、たとえば、「放射能」を不安に思う人が瓦礫焼却に対して「反応」する一方で、瓦礫受け入れに賛成する人には反応しなかったりすることを指します。
https://twitter.com/NATROM/status/344017514835095554
臨床環境医たちが厳しい診断基準を作らなかった理由を、「顧客が減るから」だと私は推測する。連中は患者のことなんて考えてないよ。不安を煽って顧客が増えればそれでよかったのだろう。
https://twitter.com/NATROM/status/344020644603764737
化学物質過敏症は臨床環境医によってつくられた「医原病」だと思う。

患者や環境医に対する、きわめて侮蔑的な内容ですが、そういう疾患概念を提唱する自由はあります。
ですが当然、発言の自由は批判される自由でもあり、これほど強い主張を科学の名のもとに公言するのであれば、それなりに根拠を求められます。
たとえば、環境医を曝露要因として検討した疫学研究を示す必要があるでしょう。しかし、どうもそういった研究は見当たりません。
カニズムに関しては、内心に属するものなので、反証不可能なのが残念なところですね。そういう意図を示した発言記録でもあれば別でしょうが。

また氏のこの見解に対して、以下のような説明をしているところがあります。
http://d.hatena.ne.jp/ublftbo/20130614/p1
みればわかるように、NATROM氏は「医原病」の一般論をしているわけではありません。化学物質過敏症患者および臨床環境医という具体的な対象に対して具体的な見解を述 べ、その具体的な内容が批判されているわけです。
批判されている具体的な内容はスルーして一般論だけ述べ、それが「氏の見解」だとするのは、たとえば特定の歴史的事件に対する特定の見解を批判 されている時に、歴史一般の話にすりかえるような、よくある欺瞞と同様です。
第一、安易な疾病概念の問題を指摘するなら、まずもって「化学物質過敏症は臨床環境医のつくった医原病」という疾病概念についてきちんと批判さ れるべきであるし、不適切だというなら、いつものようになにがどう不適切なのか科学的にきちんと書いてはどうでしょう?


このように疫学は重要ですが、短所もあります。
疫学が威力を発揮するには、大まかな曝露要因がわかっており、発生した症状をきちんと調査していることが 必要です。つまり、被害者が発生してからしか対応できません。また逆に、これらの調査をサボタージュすることによって、「被害の根拠はない」と強弁することもできます。山下俊一氏らとチェルノブイリ調査を行ったことでも知られる重松逸造氏らは、このような疫学の悪用を担っている旨を津田氏は述べています。

さて、現代日本において、重松氏の後を継ぐのは誰でしょうか? 
歴史的災害下にあって、巨大な公害被害を繰り返さぬよう、国民は調査や政治に関与する学者の動向を注意深く見ていく必要があるといえるでしょう。


こちらでも同様の問題を指摘しているようです:
似非科学批判と医療の問題について
http://dsj.hatenablog.com/entry/2015/09/06/122750