これぞ大学院生必携、『研究室の人間関係学』

ラボ・ダイナミクス―理系人間のためのコミュニケーションスキル
ちまたで大学院問題が再興しているみたいなので、二度目になりますが本書を紹介しておこうと思います。ちなみにタイトルは「ラボ・ダイナミクス」ですが、『研究室の人間関係学』ような邦題にしたほうがずっとわかりやすいと思います。
まず前提認識ですが、大学・大学院といった高等教育はその定義からして、多様性を持つものです。
国民があまねく受けるべき教育、というのはすなわち「義務教育」なんであって、それにプラスアルファして個々人の状況に合わせて学ぶための知識や技術や思考こそ高等教育機関が受け持つべき領域なのです。
有識者の皆さんが大好きな米国の大学だって、ものすごく多様です。
ハーバードやスタンフォードといった私立研究系大学ばかり取りざたされますが、米国社会を支えているのはそれだけではなく、地域の教育や産業をになう州立大学、社会で活躍するための本来的な「教養」を身につけるリベラルアーツ・カレッジなどなど、それぞれのミッションとカリキュラムを掲げたたくさんの大学がそれこそ群雄割拠です。
とはいえ、学術機関、研究機関にある程度共通した問題というものも確かにあるでしょう。
本書が特に優れているのは、そういった問題に対して個人のライフハック的テクニックで応ずるのみならず、システムそのものの問題にまで踏み込んでいる点です。
たとえば、学術機関のバッド・サイクルとして以下のようなことが挙げられています。

1.科学者はみな、学術機関で訓練される。
2.科学者は指導力ではなく(論文など個人的な)生産性に対して報酬を受ける。
3.大学院生は認められるためにあらゆる苦痛を耐え忍ぶ。ゆえに、システムを改善しようという気持ちがない。
4.大学院生は専門的なスキル以外はほとんど何も身につけずに大学院を出る。
5.学術機関に就職した科学者はサイクルを繰り返す(1に戻る)。

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参考資料によると、こういった問題は米国では90年代に認識されていたようで、特に99年にハーバードで院生の自殺者が出てからは急ピッチで対策をとられるようになったそうです。
これだけでも日本の大学院の対応の遅れは10年どころじゃないのですが、おそらくこういうサイクルの存在自体を認めない方もいまだに多いのではないかと思います。
本書ではこういうシステム上の問題を前提に、その中でなんとかやっていくためのコミュニケーション&メンタルスキルについて踏み込んだ解説を丁寧に展開していきます。
理系の訓練を積んだ人はとにかく「事実」のみに注目する傾向がありますが、人間や組織は明らかな事実だけではなく感情や価値観や立場にも大きく影響されます。
それは科学者自身も例外ではなく、事実にのみ基づいていると思っていてもその解釈は感情や立場に左右されうるのです。
第一章でそういった自身の「感情」を把握するテクニックを身につけ、またそれを単に押し殺すのではなく、そこから普段あまり意識しない自身の価値観や傾向を割り出していきます。
そういう感情把握のできない同僚にどのように接するか、立場や価値観の違う上司、部下といかに交渉をおこなうか、あるいは学術機関から産業組織へ移るための注意点、などなど実践的な議論がどんどん続きます。
中でも重要なのは理系版の「原則立脚型交渉法」で、これができるとできないでは特に「仕分け」のような場で雲泥の差がでることでしょう。たとえば注意点として、

・交渉とは問題を解決することであり、戦うことではない
・交渉の目標は賢明な合意に至ることであり、勝つことではない
・双方が求めている利益を見きわめる
・複数の選択肢を用意する

・・・などなどが挙げられており、オーサーシップやアカハラの問題など、実際のラボで起こりがちな対立に関するケース・スタディがあります。
特に、「科学者ではない上司に対して交渉する技術」の項など、まさに「仕分け」の場面そのものです。
また組織内の部門同士で対立しがちな傾向をここでは「サイロ思考」と呼んで分析していますが、これは日本で言うところの「タコツボ思考」にあたります。
結局日本だろうと米国だろうと似たような問題が起こるんですが、その失敗をしっかりと認識して対処するかどうかでその後が違ってくるのでしょうね。
詳しくは本書を読んでください。全国の大学院で必修にしてもいいくらいタメになる内容です。
大学院生と、大学院生を受け入れる研究室の教員、また大学院生を採用する企業の方にも、留保なくおススメできる良書です。太鼓判。

*1:括弧内は引用者の補足です