ハンプティ・ダンプティとしてのハルキ・ムラカミ

遅ればせながら、新年おめでとうございます。今年もマイペースでございますが、よろしく。
年末年始はごく個人的プロジェクトとして、村上春樹の読み直しをしてみました。1Q84は未読なのですが、その前におさらいといったところでしょうか。
もう一つは、昨年注目されたはエルサレム賞のスピーチ。なんとなくひっかかる内容なんですよね。卵と壁の比ゆは確かに分かりやすかったのですが、ハルキ・ムラカミってそんなに分かりやすかったっけ?というもやもや感がありました。
で、読んでみたのが
風の歌を聴け (講談社文庫)
羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
チョイスはたまたま手元にあっただけなんですが、デビュー作、初長編、初ヒット作、と意外とバランスのとれた三作になりました*1
結論から言うと、本人が冒頭で「小説家として」宣言したとおり、エルサレム賞のスピーチにはやはり「嘘」がある。
クレタ人のアレ」をいいだすとややこしいので、より正確にいうと、そもそもハルキ・ムラカミの小説は「卵と壁」のわかりやすい対立構造を描いたものではないし、エルサレムにあるのもそれではない。
いくつか指摘があったように、西洋には「卵と壁」といえば当然思い出される光景があります。
ご存知マザーグースの「ハンプティ・ダンプティ」ですね。

比ゆの達人である村上春樹がこれを念頭に持っていないわけがない。
しかし、「ハンプティ・ダンプティ」はスピーチにあるような卵と壁の対立関係を意味してはいません。

ハンプティ・ダンプティが 壁の上
ハンプティ・ダンプティが おっこちた
王様の馬みんなと 王様の家来みんなでも
ハンプティを元に 戻せなかった

ハンプティ・ダンプティは「壁の上」にいるのであり、それが破壊されるのは「壁から降りたため」なのです。
村上春樹は確かに「卵と壁」=「個人とシステム」について繰り返し書いている。しかし、そこにあるのは分かりやすい対立構造ではなく、「壁の上」にいる「卵」ハンプティ・ダンプティが、「壁」から逃れようとして、あるいは逃れたふりをしながらも、やはり逃れられない、というジレンマなのです。
よく言われるように、村上小説の主人公「僕」は受身であり、社会に背を向けているように見える。しかし、いくらそういうポーズをとっても、実際に逃れることはできない。
羊をめぐる冒険」にこういうくだりがあります。

僕は迷惑に関してはちょっとした権威なんです。他人に迷惑をかける方法なら誰にも負けないくらい知っている。だからなるべくそういったものを避けて暮らしてるんです。でも結局はそうすることで他人にもっと迷惑をかけてしまうことになる。

ディタッチメントというのはすでにコミットメントの一形態であり、もしかするとより「たち」が悪いのかもしれない、ということに自覚的なのです。
また「ノルウェイの森」の主人公ワタナベは、作中で「システム」を体現する人物である永沢に、いくらポーズをとろうが「おまえは自分と同類」であることがくり返し告げられます。
個人はシステムから逃れられない。どんなにディタッチメントをきどろうとも、それ自体がコミットメントのスタイルにすぎない。
唯一可能性があるとするなら、それは「壁から飛び降りること」=「死」であるのかもしれない。
初期の村上小説のモチーフはこの変奏になっています。
「ディタッチメントからコミットメントへ」。
ですから後期に見出されるこの方向性も、文字通りの意味ではありません。壁の上にいながら、壁から逃れたふりをすることをやめる。もしくは、卵と壁の対立、というニセ問題から脱する。そういうことを表しているものと考えられます。
「卵と壁」という単純な対立構造を認めていれば、壁・システムを「悪」と考えればいい。話は簡単です。しかし、その構図が崩れたいま、村上小説は「邪悪」の起源を求めてさまよっているようにみえます。
もちろん壁が卵を押しつぶすこともないわけではない。しかし卵に邪悪の黒いシミが浮き出ることもある。システムを悪者にして無垢をきどることは悪ではないのか?
ではなぜエルサレムでいまさら「卵と壁」の構図を持ち出したのか。
本当のところはわかりません。本人が模索中の「邪悪」について、短時間のスピーチで表現できないと考えたのかもしれません。
一つ考えられることは、ここでは「真実を話す」といっていることです。
アンダーグラウンド (講談社文庫)において、氏の「真実」に関するとらえ方が垣間見えます。

どちらかひとつしか取れないとなったら、僕はあくまで断りつきでですが、ファクトよりは真実をとりたいですね。世界というのはそれぞれの目に映ったもののことではないかと。

つまり、エルサレムで氏が語ったことは、エルサレムの人たちにとっての「真実」だということです。彼らの目に映った世界を代弁した、ということなのです。
すなわち村上春樹は、2008年エルサレムにおいて、「小説家」として、「真実」としての「嘘」を語った、というのがわたしの見方です。
率直にいって、エルサレムでの氏のスピーチに政治的意義があるとは思いません。村上小説はきわめて個人的な問題にフォーカスしていて、こういう場で有効な性質のものとは考えません。
しかし、村上春樹とその小説を考える上では、きわめて興味深いものであったと今では感じています。
やっぱり全身小説家、ハルキ・ムラカミ。そして偉大なるハンプティ・ダンプティ。

*1:ちなみに現在ねじまき鳥中