「脳死は人の死か」という以前に「脳死判定が本当に脳の死を意味しているのか」が問題

臓器移植法案に関して、「脳死は人の死か」、ということに関する意見表明がちらほら見られて、それはそれでいいことだと思うのですが、脳死についてはそれ以前に考えるべきことがあります。
脳死に関する問題は大きく三つに分類されて、

1.どのように『脳の死』を判定し定義するか
2.脳の死が個人の死であるのか
3.個人の臓器をどう扱うべきか

と考えることができるわけですが、臓器移植法関連では2以降がよく議論されて1がスルーされがちです。
しかしまず考えるべき、重大なことは1の問題です。
皆さんは脳の死、と言ったとき脳のどのような状態をイメージするでしょうか。
脳波がピーーー、とフラットになった時? それとも脳組織そのものが豆腐のように崩壊してしまった状態?
二つはイコールではありません。
前者のイメージ、脳の機能が外部から測定不能になったときを脳の「機能死」といいます。
後者の状態、脳組織自体が修復不能に崩壊した場合「器質死」といいます。
器質死が起きた場合、もちろん脳の機能はありませんから、同時に機能死になっています。
しかし、機能死が起きたからといって必ずしも器質死が起きているわけではない。部分的な損傷により、脳の機能が麻痺しているとも解釈できるわけです。たとえばフグ毒で神経をやられて一時的に脳の機能死状態に陥リ、のちに回復した例もあるようです。
現在の日本の脳死判定は前者、「機能死」を基準に行われています。
もちろん、完全に一致しないとはいえ、機能死がいずれ器質死につながる確率は高いといえます。厚生省の調査では、機能死解剖例の7割が器質死にあったということです。残りの3割もより時間をかければ器質死におちいった可能性は高いでしょう。
しかしながら、機能死ではやはり怖い。回復の可能性がないとはいえないし、内的な意識もあるかもしれない*1
だからより確実な死といえる器質死を判定基準にしよう、という意見もあります。
器質死を判定するには、機能死に加えてプラスアルファの検査が必要です。たとえば脳血流の測定。組織が崩壊していれば脳の血流は止まっているはずですし、脳全体の血流がなければ酸素を多量に必要とする脳の器質死は不可避です。
ではそれでいいじゃん、とも思うのですが、現在の判定基準はそうなっていません。
なぜか。
優先順位の問題なのです。
器質死まで待つとすると、移植用の臓器の劣化は避けられません。脳の機能が停止した時点よりさらに時間をかけねばならないからです。
つまり脳の死の確実性よりも移植用臓器の新鮮さを優先したのが現在の判定基準といえるでしょう。
これはいい悪いというより、どういう価値基準でなにを優先するか、の問題です。
脳死は人の死か、という以前に、脳のどういう状態をもって脳死と判定するのか。
完全な死の確定を優先するのか、移植用臓器の新鮮さを優先するのか。
なにより、そこを議論しなくてはなりません。
個人的には、一般的な脳死基準はやはり器質死に近づけたいと思います。それならば脳死は人の死、ということにも抵抗が少ない。しかし一方で臓器提供によって貢献したい意志も尊重すべきですから、あらかじめ提供を希望する場合に限り、機能死を選択する権利を保持できるようにするのはどうでしょうか。


ブログで論ずるにはなかなか複雑な問題ですので、それぞれの立場を取る以下の二冊を読んでみることをおススメします。

脳死再論 (中公文庫)

脳死再論 (中公文庫)

立花隆はサイエンス関連では怪しいことも多いですが、少なくとも事実認識に関してはそうはずしていません。ただし氏は脳の死の確実性を極めて重視する立場にあり、これに関しては当然意見の分かれるところでしょう。


追記7月13日、A案通過してしまいました。これは禍根を残すと思います。考える材料としてこちらにもTBしておきます。
こんな例もあるようです。
UK teen recovers “fully” after 4 doctor found him “brain dead”
http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10037#When:10:50:47Z

*1:フグ毒のケースでは意識も記憶もあったといわれています。