日本は「維新主義」から脱却できるか
太陽がお隠れになったり議会が解散したり宮崎の人がいなくなったり、いろいろと動きがあって面白な日々ですね。
政治の季節っぽいので宮台センセの
- 作者: 宮台真司
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2009/04/01
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少なくとも民主党の躍進はあると思われる今回の衆議院選挙。政権交代自体は結構だと思いますし、しがらみが断ち切れることで新しい声が政治に入りやすくなるのは悪いことではないでしょう。
でもちょっと気になるのは、明らかに意識しているであろう「平成維新」。
イメージ戦略上定石なんでしょうけど、日本で政治改革というと、常に「維新」と称されます。
単なる言葉のアヤならいいんですが、どうも明治維新以来、昭和維新と呼ばれた226事件も含めて日本には一貫した「維新主義」なる政治的傾向があるらしいのです。
明治維新の遺産―近代日本の政治抗争と知的緊張 (1979年) (中公新書)
- 作者: テツオ・ナジタ,坂野潤治
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1979/09
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著者によると、日本には明治維新以来、政治的に二つの潮流がある。ウヨク・サヨクではなくそれ以前に根付いたもので、
- エリート的合理主義
- 維新的理想主義
ということらしいです。
エリート的合理主義は主に明治維新初期からの流れで、寡占政治家もしくは官僚によるエリート主義。
維新的理想主義はその後の自由民権運動を含む民衆運動にあります。
↑の宮台センセはこの内エリート主義を取るようですね。
現在の政治状況を考えると、官僚vs寡占政治家といったところで、やはり前者の色合いが強いのでしょうか。個人的には、若い人の中には後者の維新主義的心性もかなり見られるように思います。
ただ、この二つ。結局のところ、「正しさ」をエリートが担うか、民衆が担うかという構造になっています。
双方、どこかに本当の「公」、「正しさ」があり、それを誰かが握っている、という思想なのです。
ですからいずれの場合も団体による政治活動を嫌い、「私」を排除する傾向にあります。
この傾向、ちょっと問題ありなんです。
さまざまな立場や価値観のプレイヤー達がお互いに交渉や調停を行って合意形成をしていくうちに「公」が生み出されていく、というのが自由民主主義の基本的なシステムです。
もちろんプレイヤー達が衝突すればいいってもんではなく、未成熟なそれは最悪殺し合いになってしまうでしょう。そうやって西洋の血みどろの歴史の中から生み出された最低限の「公」が基本的人権というわけです。
それを超える部分の「公」は社会の状況に応じ合意形成によって生みだされるものであって、あらかじめどこかに転がっているものではありません。全体の「目的」も決まっていないのだから、「全体最適」すら合意なしには存在しないのです。
どこかにある「正しさ」を「エリート」が、はたまた「民」が代表する、という考え方は民主主義というよりもある宗教を思い出させます。
あるいはその日本版が「日本教=公」というものなのかもしれません。
完璧な制度などありませんから、当然欠点はあります。異なる価値観同士で合意形成するのはそんなに簡単ではありません。またプレイヤーとして声をあげられない人々が排除される可能性は常にあります。
これらは制度そのものと一体なので、無くす事ができません。
「使い手」が習熟していくしかないのです。それが民主主義の成熟度、というヤツです。
じゃあ成熟するにはどうすればいいか。使うしかないでしょう。
「もうちょっと上手くなってから練習する」というのはのび太の名言です。が、クセの強い名馬を乗りこなすには、乗るしかありません。
明治以来の「維新主義」から、「民主主義」へ。
成るかどうかは分かりませんが興味深い時代です。わたしも一プレイヤーとしてできることはボチボチとやっていこうかなと思います。