「博士の奇妙な問題・第一部ポスドク・ブラッド」の終幕

終演のサイレンを鳴らすのが本書。

博士漂流時代  「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)

博士漂流時代 「余った博士」はどうなるか? (DISCOVERサイエンス)

著者はわたしの旧知の友人/恩人でもあり、博士、ポスドク問題を2001年から指摘し続けてきた、元サイコム、現SSA代表の榎木英介医師/博士です。
大学院問題に関しては、水月氏の「高学歴ワーキングプア」「アカデミア・サバイバル」が話題となり、その後も継続的に発言を続けておられます。
しかし、やはり大学院問題の本丸は悪名高き「ポスドク一万人計画」にあるだろうし、このテーマについて語るのに榎木氏ほどの適任者はいないでしょう。
本書には、いわゆるロスジェネ世代として、実際にポスドク一万人計画に翻弄され、博士課程で研究生活を送り、また医師を志し、同時に大学院問題に取り組んできた榎木氏の10年にわたる苦闘と思考と蓄積がこれでもかと吐き出されています。
実にアツい。
長年の活動によって得られた情報が惜しげもなく詰め込まれているので、日本の大学院が現在の状況にいたった経緯はほぼこれで把握できるでしょう。一点、氏の活動領域からややはずれる産業領域との関連についてはもっと掘り下げたいところですが、それにはもう一冊の分量が必要でしょうね。
およそ、大学院、ポスドク問題について語られるであろう意見、論点はここに出尽くしています。
わたしも氏の活動を見てきているので、いまや言いすぎて口の中で発酵しそうな話だけれど、

・まず第0部、プロローグとして、70年代にすでにオーバードクター問題があった。
・これが高成長と好景気によって、うやむやのうちに「解決」してしまう。
・80年代になって、アメリカから「日本は基礎研究にただ乗りしている」として圧力がかかる。
・第一次ベンチャーブーム、バイオブームに乗り、産官学あげて「大学院拡大政策」を発動。
・大学は学生が欲しい。産業はシーズが欲しい。政府は雇用が欲しい。
バブル崩壊。失われた>10年。少子化。デフレ。ベンチャー起きず。
ポスドク問題。仕分け。

という例のストーリーに加え、各所で語られる

・自己責任論
・マッチング論
・政府批判

などなど、もういやになるくらいまとめられています。
欲を言えば、この政策に関わった官僚、大学関係者の声も聞きたいところですが、正直、この手の話はもう本書でいったん〆にしたいですね。
「第一部完!」というやつです。
「次」を語らなければなりません。


榎木氏の持論であるAAAS。会員1000万人を超える、アメリカ、いや世界最大の科学NPOであり、政治にも強い影響力を持つ。
わたしもかなり前にこちらで紹介し、そこそこの反応を得ましたし、そういうものが日本できればいいとは思ってきました。

ただ、仕分けの反応などをみても思ったのですが、これには科学コミュニティがみずから戦略構築する力が必須です。今の日本では、残念ながらそれが足りないと思います。
政治に未来を問う声は大きい。が、みずからこういう未来にしよう、という具体的なビジョンと戦略が、大学や科学コミュニティから出ることはありません。
長期的には云々、という言葉をよく聞きますが、上に見るようにその長期的展望の欠如が現在の問題につながっているのですから。
これではAAASなんて夢のまた夢。
とはいえ、これは単に科学コミュニティの問題というより、日本の民主制のあり方の変革に近い。
たとえばアメリカに「国立大学」は存在しません*1。つまり一律に国(連邦)によって仕組みが決定されているわけではない。
当然、資金も国(連邦)からだけではなく、州や企業、寄付の占める割合が大きい。GFPの下村博士が所属したMBLは、国(連邦)からの資金をあえて入れないことで、研究の独自性を保っているとも聞きます。
アメリカの仕組みを参考にするのであれば、そういうレベルでまったく土台が異なっていることを考えなくてはなりません。
10年やそこらで完成する活動ではないのでしょう。しぶとく生きつつ、じっくりやるしかない。


キーワードとして、中間的な科学、という表現が出てきます。
科学として最先端というわけではないが、社会とのあいだをつなぐ、という意味です。考えてみれば「技術」とはもともとそういう言葉なのでしょう。ただ日本で技術というと、「技の道、匠の道」みたいなニュアンスが入ってしまうのが難点でしょうか。
思いつきですが、中間的な科学をたとえば「グラミン・サイエンス」と呼んでみるのはどうでしょう。
ムハマド・ユヌス氏らによるグラミン銀行は、決して最先端の経済理論を打ち立てたわけではありません。既存の知識、知恵の組み合わせと、現場でのチューニングにより、新たな、大きな価値を生み出しました。
科学者というのは大きな科学理念を追求するように訓練されますが、社会における価値というのはもっと多様です。
世界でもっとも雇用を生み出してきたアメリカの大学院ですら、博士余りの状況をむかえています。おそらく、今後国策によって一挙に解決、ということはありえない。
国の力を使うにしても、科学コミュニティや個々の大学、地域が独自の戦略を持って動かなくては、それぞれの状況の最適解を国がひとつひとつ出してくれることはないでしょう。
分野や地域に応じた「グラミン・サイエンス」を生み出す力が、21世紀型の科学者には必要なのではないか、と感じます。
流動性に関する議論もあります。
もちろん、様々な分野で博士の技能が活かせることは素晴らしい。ただ、上から一律に流動性を押しつけるとロクなことにならないのは、この10年でだいたい見えたのではないでしょうか。それは立場の弱いものの雇用不安定化を招くだけだし、個々の仕事の性質を考慮しない。
もともと流動的な職業もありますが、それらは仕事が標準化されており、異動のリスクやコストが低く、報酬が十分高い場合です。
逆にいえばそういう状況をつくれば、強制せずとも自動的に流動化するでしょう。
個人的には、雇用の流動化ではなく柔軟化、で対応すべきだと思います。雇用そのものは維持しつつ、仕事を柔軟に変えていく。
本書でもコ・サイエンティストという表現で言及されていますが、日本では「研究を取りまく研究者以外の職業」が整備されていない。
研究事務、機器管理、技術の維持継承、広報、特許、産業移転、いずれもプロの仕事となりうる重要な業務です。
これらが「雑用」としてしか認識されていない。このあたりは、日本でのコ・メディカルやパラ・リーガルの軽視ともつながる問題なのかもしれません。
これらの仕事を研究者と対等なプロフェッショナルとして遇すれば、「申請書を10倍通す凄腕研究事務」「共通機器を知り尽くし共同実験のアレンジもできるスーパー技術員」、というルートも現実的になるのではないか。もちろん、研究者自身の意識改革も必要になりますね。


サイエンス・コミュニケーション
従来の「伝える」サイエンス・コミュニケーションに加え、「聞く」サイエンス・コミュニケーションを提案してみます。
どの現場にどういうグラミン・サイエンスが必要かは、科学者から「伝える」だけではわからない。
科学者は、専門家同士、また非専門家に対して「伝える」技術はある程度訓練されますが、非専門家から「聞く」ことには縁がない。
意見に対して「ディフェンス」することは教わるけれど、非専門的な意見を「聞く」技術は教わらない。
もちろんこれは科学者に限った話ではありません。あらゆる専門家に当てはまりますが、ただ顧客と接しない研究者という職業では、特に気をつけたほうがいいでしょう。
たとえば科学者が集まって地域の問題について教えていただく、「リバース・サイエンス・カフェ」もあっていいのではないかと思います。
第二部はどうなるでしょうか。
現実的には、「雇用」と「財源」、そして「コミュニティ」に関する取り組みになると思います。
マネーそのものが日本にないわけではありません。むしろ余っているからこそ、邦銀は国債を買っているわけです。偏ったマネーを足りないところに供給するのは銀行の本来的役割ですが、その能力が衰えている。
眠っているお金を科学技術を介して社会的価値に変えることができれば、科学者の雇用も生まれ、経済も回復する。経済が回復すれば、余裕が生まれて文化的投資も増える。
科学の目的は経済ではないかもしれませんが、経済なくして現代の科学研究は成立しない、という現実は無視できません。
また、国家といった大きなシステムが信用できないならば、結局は人間同士の信頼関係を強めるしかありません。
国家を介する以外の方法で、社会と科学をつなぐ多様な試みが必要になってくるでしょう。
いきなりAAASという夢は難しいと思いますが、現代は明治維新とは逆の時代。
つまり強い中央集権へ向かうのではなく、いかに多様な状況を分散的に解決するか、という時代なのです。
ボトムアップなグラミン・サイエンスがたくさん成立し、それらがコミュニケーションすることで結果的にAAASのようなネットワークが生まれる、というストーリーこそ、現代の「維新」にふさわしいのだと思います。


ながなが書いてしまいましたが、「次」を考えるためのこの一冊。読みましょう。

*1:軍人養成系はある

内集団だらけのアメリカ、寡占状態の日本

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20100522/1274544444

こちらのブックマークでid:crowserpentさんにご質問いただいたので素人なりに少々。
山岸俊男さんの本は今手元にないのでうろおぼえですみませんが、アメリカ人のオープンネスの根拠となってる実験ってどこかの大学の学生を対象にやっておられませんでしたっけ。
実験そのものはとても面白いと思うのですが、やっぱりその解釈って難しいですよね。
はたして、ある大学の学生を集めて実験することで、アメリカ人の異質に対するオープンネスを測れるのでしょうか?
アメリカの大学では、OBによる寄付が大きな財源になっているといいます。それだけ、帰属意識もしっかりしていると考えられますね。各大学も日本よりはるかに多様であり、ある大学に集まる学生には、共通の目的や文化があるとみることも可能でしょう。
つまり、ある大学に帰属する学生を使って実験することは、「内集団の内側での親密さ」を測っている、と解釈した方が妥当なのではないでしょうか。
となれば逆に、アメリカ人は日本人より内集団的である、と結論することもできますね。
留学経験のある先生がアメリカのオープンネスを礼賛する光景はよくみられますが、考えてみればそれは中産階級の上あたりに位置するリベラルな研究者コミュニティの内部」でものごとを見ているに過ぎないのであって、そこからアメリカが一般にオープンで内集団的でない、などと結論するのは早計にすぎるように思います。


さいわい、アメリカの政治制度や文化を長年にわたって研究してきた人たちがいますので、それらを参考にしてみるのも一つの手でしょう。
アメリカ政治制度分析の元祖はトクヴィルでしょうけど、さすがに古いので、たとえばアメリ政治学界の泰斗、ロバート・ダールの一般向け書籍を読んでみましょうか?
その名も「デモクラシーとは何か」。
デモクラシーとは何か
ここには、「アメリカ人は何事に対してもオープンで内集団的な閉鎖性などみじんもない」、などということはまったく書かれていません。
むしろ逆に、アメリカの民主制を支えているのは「多種多様な集団が入れ子状にかつ拮抗して存在していること」、だと結論づけられています。
アメリカにおいて、オープンネスが一つの価値として認められていること自体は確かにそうでしょう。
ただ、それが実際にどのように存在しているか、は別の問題です。
そもそもアメリカは、州政府の集合によって成り立っています。住民自治も強力です。宗教団体だって多いし、たびたび紹介してきたように職能団体だって日本よりはるかに多くかつ活発に運動しています。
内集団だらけといっていい。
なぜこういう状況でオープンネスが価値とされるのか。
それはたとえば、戦国乱世状態にあるマフィア群のボス達が終戦協定を結ぼうとするテーブルにおいて、非武装であることがオープンに明白でなければならないのと似ています。
つまり拮抗する勢力間においては、フェアネスがなければ話し合いにならないということ。カオスのみのジョーカーではダメということです。
内集団だらけであるからこそ、オープンさが価値とされるわけです。
もちろん、内集団には閉鎖性という問題がついて回ります。ハリウッド映画でもそういうテーマは腐るほどありますよね。どこも同じです。
日本とアメリカで違うとすればここで、現存の集団を所与としない。つまり、ある集団の閉鎖性により不利益を受けたならば、新たな集団がすぐに成立するということです。そして拮抗の論理を使い、交渉と調停によって状況を改善する、というのがアメリカ的な方法です。考えてみれば建国からしてそんな感じですよね。


内藤朝雄さんの「いじめの構造」いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)では、内集団の閉鎖性を打破するために上からの強制介入を提案されています。学校という場合に限ればそれも可能かもしれませんが、もし、あらゆる集団の閉鎖性を上から解体しようとすれば、そこには巨大な権力が必要となるでしょう。
そして巨大な権力というのは、もっとも危険な内集団でもあるのです。
むろん拮抗の論理にも落とし穴はあって、集団がそれぞれ原理主義に陥ってしまうと、交渉も調停も不可能になり、単なる戦争状態になってしまいます。
ですから、絶対に譲れない、本当に重要な部分は厳選しておかなくてはなりません。どうでもいいところにこだわって、真に重要な部分を守れなければ無意味ですから。また、最低限のルールを守らない集団とも交渉はできませんね。これらが人権という概念にもつながります。


日本の民主制度がうまくいっていないとすれば、ダールのいうところのこれらポリアーキーというシステムが働いていない点にあるように思われます。内集団を解体しようとして、逆に寡占状態を招いているわけです。
まあダールはややアメリカ礼賛的なところがありますが、そのダールへの批判も辞さないイギリスの政治学者バーナード・クリックですら、「一冊でわかるデモクラシー」
デモクラシー (〈一冊でわかる〉シリーズ)
において、民主制の成功には多様な自律集団の拮抗が不可欠だと論じています。
プラス、両者が共通して必要だとするのは「教育」です。
クリックはシチズンシップ教育」と称していますが、つまり、「集団を形成し、交渉し、調停し、合意を形成する」スキルや姿勢を国民が広く持っていなくてはならないわけです。
これは当然ながら、政府を含め「上からのコントロール」が効きにくくなることを意味します。州と連邦が対立する情景は映画でもおなじみですよね。
しかし民主制でやっていくのであれば、避けては通れない道ですし、そもそもは日本人も持っていた精神であると思います。
民主党が掲げる「新しい公共」がここにつながってくればよいとは思いますが、馬を水場に連れて行くことはできても、飲むのは馬次第。
自律というのはある意味ではコストがかかります。すべて分業して任せてしまった方が「効率」がいいかもしれません。
しかし村上春樹の「ねじまき鳥」にあったように、「効率」というのは方向や目的に依存します。ボートをこぐ方向や目的地が分からなければ効率もイカの頭もない。
「自律」というのは方向や目的を自分で決める、決められる、ということです。
「効率」はその後にやっとあらわれるものなのです。
個人的には、自分で考えて動く人が多い方が経済活動も活発化するんじゃないかと思いますけどね。

女王の顔は知覚か感覚か?

ヘレナ・ボナム・カーターを観すぎてなんだか大竹しのぶに見えてきました。目の表情が似ているのでしょうか。
映画のほうは3Dのせいか意外と内容はアッサリしていて(構図的にはマッチョですが)、90分で二本立てとかやっていた時代をなんとなく思い出しました。3Dで二時間以上見続けるのはつらいので、長大化の流れが逆転するかもしれませんね。
で、図書館で真っ赤に異彩を放っていたニコラス・ハンフリーの「赤を見る」を読んでみました。赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由
ハンフリーの主張のポイントは以前から一貫しています。

1.知覚と感覚は別のものである
2.意識は感覚から生まれた

大きくいってこの2点。
この本ではどちらかというと1番目に関する傍証に力点が置かれているようです。
特に興味深かったのが、「盲視」に関する記述。
「盲視」とは、脳のある部分に損傷を受け、学術的には視力が「ない」にも関わらず、「視えている」かのような行動が可能なケースのこと。
チンパンジーと人のそれぞれの例が書かれてありますが、人の場合、本人も意識的には「視えていない」のですが、無意識的に障害物をよけたり、テーブルの上のものを取ったりすることができる。
つまり、空間的(視覚的)な情報は脳に入ってきており、それを処理することもできるけれども、いわゆる「意識」にはのぼってくることがない、という状態らしいのです。
これ、ジョン・サール中国語の部屋と比較してみるとなかなか面白いですね。
マインド―心の哲学
中国語の部屋」においては、部屋の中の人は、外から入れられる中国語のカードに対応辞典を引いて機械的に応えるだけで、その意味や内容を理解していません。
中の人を「意識」ととらえると、これは
「意識しているが理解していない」
状態です。
一方「盲視」の場合、意識はできないが情報を身体的には「理解」して行動できる。
つまり、
「意識していないが理解している」
と解釈することが可能です。
ハンフリーの場合は、意識≒感覚、理解≒知覚と考えていて、これらの傍証から感覚と知覚の分離を分かりやすいイメージとして描き出してくれます。
ただ、意識は感覚の統合から生まれた、という解釈そのものにはやや疑問が残りますね。
感覚の起源をアメーバの「身悶え」にみるセンスは詩的だと思いますが、それは同時に知覚の起源でもあるわけで。
どこまでを意識ととらえるか、という問題もありますが、個人的にはシミュレータとしての「意識≒知覚」の発達と対抗的に「感覚」が増幅されたんじゃないかな、と解釈しています。この場合は知覚も感覚いずれにおいても、意識にのぼるものとのぼらないもの、計4種類あると考えるべきなのかな。
「アメーバの身悶え」を起源として、それと直結する身体的な知覚と感覚、それらを抽象化し増幅した意識的な知覚と感覚。


ところで、量子脳理論についてふれたエイプリルフール記事を書いたためか、なにやら書評の依頼が舞い込んできました。
商売抜きに無料公開しているSF小説とのことで、弓月城太郎さんの「神秘体験」という作品。こちらで全文ダウンロードできます。
http://yuzukijoutarou.3rin.net/
某氏と何やらもめていた経緯もあったようですが和解されているようですし、完全に自由な感想でよいということなので簡単ですが書いてみます。
SFというよりは、一種の教養小説でしょうか。天才児の成長と苦悩、という王道に、科学者として、信仰者としてのアイデンティティ確立をかけあわせています。ガジェットは新興宗教にクローン技術にフィギュアスケートに将棋と、なかなかにポップ。文章は想像以上にこなれていて、無理なく読むことができました。
将棋の造詣が深いようで、量子コンピュータ棋士の対決というのはそれだけで一作品にしたほうがよいのではないかなと感じます。将棋は完全情報ゲームなので、本当に量子コンピュータが完成したら理論上は無敵なんでしょうね。
ただ、量子脳理論って量子コンピュータとは別の話ですよね。将棋では量子脳の長所は活かせないんじゃないかな。
あと、生物学の文脈で遺伝子変異が「ランダム」と書くことはありますが、正確な表現ではありません。DNAも染色体も構造を持った物質であり生物的な制御を受けていますので、数学的な意味においてランダムということはなく、変異しやすい箇所しにくい箇所は当然あります。塩基の変化が目的的に予定されているわけではない、という意味にすぎません。もちろん、大腸菌で見つかっている変異のコントロール性は新規なもので、非常に興味深いテーマだと思います。
全般に、強い意気込みとともにいろいろ詰め込みすぎな感があり、特に科学パートと宗教パートがうまく融合しているようには思えませんでした。無理に結合するのではなくて、それぞれのパートでひとつの作品にして、全体として関連性を持たせたほうが面白いのではないでしょうか。ポール・ウィルスンみたいな感じで。

というわけで

昨日の記事はエイプリル・フールネタでした。
ネタ元はリンク先のおじさん、ロバート・ソウヤーのSF小説
ターミナル・エクスペリメント (ハヤカワSF)
人格の電脳空間への移植や、魂の存在を示す電磁波”魂波”など、美味しいネタがつまっていてエンタメ的にもよくできたSFです。よかったらどうぞ。ホブスンはこれの主人公ですね。
ちなみにペンローズが意識の量子論を唱えている(いた?)のは事実。
紹介した心の影〈1〉意識をめぐる未知の科学を探るではペンローズがあふれる教養と知識と学問を使って、人間の意識、というか悟性的な知性は論理回路以上の「なにか」である、ということをプレゼンしていて、非常に読み応えがあります。特に集合論を使った論証は圧巻。
ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)にもつながっています。
ただ下巻の最後に出てくる微小管が意識の座かも、というところはさすがに厳しい。
ミクロとマクロの現象をあまりにも単純にくっつけすぎた感があり、現在ではほぼネタ扱いになっているかと思います。
量子論の不確定性と自由意志とを結びつける議論もありますが、ペンローズの場合は自由意志というよりは人間の直観的認識能力を説明するためのモデルみたいですね。神経系が論理回路であるなら、それ以上のなにかが細胞内、たぶんネットワーク構造の微小管にあるはず、という。
SF的想像力としては魅力的ですが、おそらく前提が違うんではないかな〜。

中心体ネットワークのシミュレーションで意識が発生した??

中心体(Centrosome)とは神経も含むさまざまな細胞の内部に存在する器官のひとつで、染色体分離の際に微小管と呼ばれるチューブ状の細胞骨格ネットワークの中心として機能することがこれまで知られています。
参照:https://www.sigma-aldrich.co.jp/up_online/Catvol2Image6.html
この中心体および微小管構造と意識の関係に着目したのが、ブラックホール研究でホーキングと並び立つ天才ロジャー・ペンローズ博士。
脳や神経を論理的な決定論でとらえている限り、そこには「自由意志」や「創造性を持つ意識」は生まれようがありません。そこで博士は、神経細胞内の微小管において生じる「量子効果」が意識の源泉ではないかと考えました。
心の影〈1〉意識をめぐる未知の科学を探る
意識や創造性の根源は脳微小管における「波動関数のゆらぎ」であり、自由意志がなにかを決定するときにこそ、その「波動関数が収束」する、すなわち世界が決定されるのです。
これが、人間だけが持つ強力なクリエイティビティ、世界改変能力の理由というわけです。

とはいえ、これまでこの量子脳理論が実験的に確かめられたことはありません。人間の脳細胞内の量子効果を測定するのは極めて困難だからです。

しかし今回、米国の人工知能開発ベンチャーUnlimited社のホブスン博士らはスパコンを用いたシミュレーションによって、大きな傍証を得たようです。


The processing performance of the neuro-computing is dramatically refined by introducing the centrosome network.


米国ではもともと生体における量子効果の研究が盛んですが、今回は計算科学側からのアプローチのようです。

博士らはニューロモデルのAIに、量子効果をシミュレートさせた中心体ネットワーク構造を導入。その結果、アルゴリズムからは予想不可能ほどの能力向上がAIに生じたのです。

また、このAIは自発的に自分の「名前」を知りたがり、知識の拡大意欲を示しました。好奇心の一種が芽生えたのではないかとの考察があります(ちなみにソーヤーという名が与えられました)。

通常のアルゴリズムが自分の「外」を自発的に認識することはなく、この結果はなんらかの「内観」や「自己認識」がAIに自動発生した史上初の例になる可能性が高いですね。文中では「soul」という言葉も出てきて、宗教的な議論も巻き起こるかもしれません。

今後はこのモデルをもとにして人間の意識構造の解明を目指すのみならず、このシステムをインターネットに接続した際の動向調査や、ロボットシステムへの導入、とくに将来の太陽系探査における活用を考えているとのこと。

もちろんホンモノの量子効果ではなくあくまでシミュレーションではありますが、それでもこれほどの効果が見られたということは、ペンローズの量子脳理論が一気に現実性を帯びてきたといえるのではないでしょうか。

日本も早急に猫型ロボットの開発を進めないと、世界的スケジュールに間に合いそうもありませんね。

追記。

これぞ大学院生必携、『研究室の人間関係学』

ラボ・ダイナミクス―理系人間のためのコミュニケーションスキル
ちまたで大学院問題が再興しているみたいなので、二度目になりますが本書を紹介しておこうと思います。ちなみにタイトルは「ラボ・ダイナミクス」ですが、『研究室の人間関係学』ような邦題にしたほうがずっとわかりやすいと思います。
まず前提認識ですが、大学・大学院といった高等教育はその定義からして、多様性を持つものです。
国民があまねく受けるべき教育、というのはすなわち「義務教育」なんであって、それにプラスアルファして個々人の状況に合わせて学ぶための知識や技術や思考こそ高等教育機関が受け持つべき領域なのです。
有識者の皆さんが大好きな米国の大学だって、ものすごく多様です。
ハーバードやスタンフォードといった私立研究系大学ばかり取りざたされますが、米国社会を支えているのはそれだけではなく、地域の教育や産業をになう州立大学、社会で活躍するための本来的な「教養」を身につけるリベラルアーツ・カレッジなどなど、それぞれのミッションとカリキュラムを掲げたたくさんの大学がそれこそ群雄割拠です。
とはいえ、学術機関、研究機関にある程度共通した問題というものも確かにあるでしょう。
本書が特に優れているのは、そういった問題に対して個人のライフハック的テクニックで応ずるのみならず、システムそのものの問題にまで踏み込んでいる点です。
たとえば、学術機関のバッド・サイクルとして以下のようなことが挙げられています。

1.科学者はみな、学術機関で訓練される。
2.科学者は指導力ではなく(論文など個人的な)生産性に対して報酬を受ける。
3.大学院生は認められるためにあらゆる苦痛を耐え忍ぶ。ゆえに、システムを改善しようという気持ちがない。
4.大学院生は専門的なスキル以外はほとんど何も身につけずに大学院を出る。
5.学術機関に就職した科学者はサイクルを繰り返す(1に戻る)。

*1
参考資料によると、こういった問題は米国では90年代に認識されていたようで、特に99年にハーバードで院生の自殺者が出てからは急ピッチで対策をとられるようになったそうです。
これだけでも日本の大学院の対応の遅れは10年どころじゃないのですが、おそらくこういうサイクルの存在自体を認めない方もいまだに多いのではないかと思います。
本書ではこういうシステム上の問題を前提に、その中でなんとかやっていくためのコミュニケーション&メンタルスキルについて踏み込んだ解説を丁寧に展開していきます。
理系の訓練を積んだ人はとにかく「事実」のみに注目する傾向がありますが、人間や組織は明らかな事実だけではなく感情や価値観や立場にも大きく影響されます。
それは科学者自身も例外ではなく、事実にのみ基づいていると思っていてもその解釈は感情や立場に左右されうるのです。
第一章でそういった自身の「感情」を把握するテクニックを身につけ、またそれを単に押し殺すのではなく、そこから普段あまり意識しない自身の価値観や傾向を割り出していきます。
そういう感情把握のできない同僚にどのように接するか、立場や価値観の違う上司、部下といかに交渉をおこなうか、あるいは学術機関から産業組織へ移るための注意点、などなど実践的な議論がどんどん続きます。
中でも重要なのは理系版の「原則立脚型交渉法」で、これができるとできないでは特に「仕分け」のような場で雲泥の差がでることでしょう。たとえば注意点として、

・交渉とは問題を解決することであり、戦うことではない
・交渉の目標は賢明な合意に至ることであり、勝つことではない
・双方が求めている利益を見きわめる
・複数の選択肢を用意する

・・・などなどが挙げられており、オーサーシップやアカハラの問題など、実際のラボで起こりがちな対立に関するケース・スタディがあります。
特に、「科学者ではない上司に対して交渉する技術」の項など、まさに「仕分け」の場面そのものです。
また組織内の部門同士で対立しがちな傾向をここでは「サイロ思考」と呼んで分析していますが、これは日本で言うところの「タコツボ思考」にあたります。
結局日本だろうと米国だろうと似たような問題が起こるんですが、その失敗をしっかりと認識して対処するかどうかでその後が違ってくるのでしょうね。
詳しくは本書を読んでください。全国の大学院で必修にしてもいいくらいタメになる内容です。
大学院生と、大学院生を受け入れる研究室の教員、また大学院生を採用する企業の方にも、留保なくおススメできる良書です。太鼓判。

*1:括弧内は引用者の補足です

ハンプティ・ダンプティとしてのハルキ・ムラカミ

遅ればせながら、新年おめでとうございます。今年もマイペースでございますが、よろしく。
年末年始はごく個人的プロジェクトとして、村上春樹の読み直しをしてみました。1Q84は未読なのですが、その前におさらいといったところでしょうか。
もう一つは、昨年注目されたはエルサレム賞のスピーチ。なんとなくひっかかる内容なんですよね。卵と壁の比ゆは確かに分かりやすかったのですが、ハルキ・ムラカミってそんなに分かりやすかったっけ?というもやもや感がありました。
で、読んでみたのが
風の歌を聴け (講談社文庫)
羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)
ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
チョイスはたまたま手元にあっただけなんですが、デビュー作、初長編、初ヒット作、と意外とバランスのとれた三作になりました*1
結論から言うと、本人が冒頭で「小説家として」宣言したとおり、エルサレム賞のスピーチにはやはり「嘘」がある。
クレタ人のアレ」をいいだすとややこしいので、より正確にいうと、そもそもハルキ・ムラカミの小説は「卵と壁」のわかりやすい対立構造を描いたものではないし、エルサレムにあるのもそれではない。
いくつか指摘があったように、西洋には「卵と壁」といえば当然思い出される光景があります。
ご存知マザーグースの「ハンプティ・ダンプティ」ですね。

比ゆの達人である村上春樹がこれを念頭に持っていないわけがない。
しかし、「ハンプティ・ダンプティ」はスピーチにあるような卵と壁の対立関係を意味してはいません。

ハンプティ・ダンプティが 壁の上
ハンプティ・ダンプティが おっこちた
王様の馬みんなと 王様の家来みんなでも
ハンプティを元に 戻せなかった

ハンプティ・ダンプティは「壁の上」にいるのであり、それが破壊されるのは「壁から降りたため」なのです。
村上春樹は確かに「卵と壁」=「個人とシステム」について繰り返し書いている。しかし、そこにあるのは分かりやすい対立構造ではなく、「壁の上」にいる「卵」ハンプティ・ダンプティが、「壁」から逃れようとして、あるいは逃れたふりをしながらも、やはり逃れられない、というジレンマなのです。
よく言われるように、村上小説の主人公「僕」は受身であり、社会に背を向けているように見える。しかし、いくらそういうポーズをとっても、実際に逃れることはできない。
羊をめぐる冒険」にこういうくだりがあります。

僕は迷惑に関してはちょっとした権威なんです。他人に迷惑をかける方法なら誰にも負けないくらい知っている。だからなるべくそういったものを避けて暮らしてるんです。でも結局はそうすることで他人にもっと迷惑をかけてしまうことになる。

ディタッチメントというのはすでにコミットメントの一形態であり、もしかするとより「たち」が悪いのかもしれない、ということに自覚的なのです。
また「ノルウェイの森」の主人公ワタナベは、作中で「システム」を体現する人物である永沢に、いくらポーズをとろうが「おまえは自分と同類」であることがくり返し告げられます。
個人はシステムから逃れられない。どんなにディタッチメントをきどろうとも、それ自体がコミットメントのスタイルにすぎない。
唯一可能性があるとするなら、それは「壁から飛び降りること」=「死」であるのかもしれない。
初期の村上小説のモチーフはこの変奏になっています。
「ディタッチメントからコミットメントへ」。
ですから後期に見出されるこの方向性も、文字通りの意味ではありません。壁の上にいながら、壁から逃れたふりをすることをやめる。もしくは、卵と壁の対立、というニセ問題から脱する。そういうことを表しているものと考えられます。
「卵と壁」という単純な対立構造を認めていれば、壁・システムを「悪」と考えればいい。話は簡単です。しかし、その構図が崩れたいま、村上小説は「邪悪」の起源を求めてさまよっているようにみえます。
もちろん壁が卵を押しつぶすこともないわけではない。しかし卵に邪悪の黒いシミが浮き出ることもある。システムを悪者にして無垢をきどることは悪ではないのか?
ではなぜエルサレムでいまさら「卵と壁」の構図を持ち出したのか。
本当のところはわかりません。本人が模索中の「邪悪」について、短時間のスピーチで表現できないと考えたのかもしれません。
一つ考えられることは、ここでは「真実を話す」といっていることです。
アンダーグラウンド (講談社文庫)において、氏の「真実」に関するとらえ方が垣間見えます。

どちらかひとつしか取れないとなったら、僕はあくまで断りつきでですが、ファクトよりは真実をとりたいですね。世界というのはそれぞれの目に映ったもののことではないかと。

つまり、エルサレムで氏が語ったことは、エルサレムの人たちにとっての「真実」だということです。彼らの目に映った世界を代弁した、ということなのです。
すなわち村上春樹は、2008年エルサレムにおいて、「小説家」として、「真実」としての「嘘」を語った、というのがわたしの見方です。
率直にいって、エルサレムでの氏のスピーチに政治的意義があるとは思いません。村上小説はきわめて個人的な問題にフォーカスしていて、こういう場で有効な性質のものとは考えません。
しかし、村上春樹とその小説を考える上では、きわめて興味深いものであったと今では感じています。
やっぱり全身小説家、ハルキ・ムラカミ。そして偉大なるハンプティ・ダンプティ。

*1:ちなみに現在ねじまき鳥中