ドラッカーはネオリベでもサヨクでもないですよ

ドラッカーをあまりにあがめ奉るのもどうかと思うのですが、私も一ファンとしてそれなりに読んできたし、いくつかのエントリで言及もしてますんで書いときます。
まず、私なりのドラッカー理解をまとめておきます。

ドラッカーのいうところの「経営=マネジメント」とは、人を手段ではなく目的と置いた上で、社会や組織をどう組み立て、動かしていくか、という方法論である。

また氏の言うところの「自らの責任」とは、日本流の自己責任論ではなく、人を目的とした時に社会や組織の中で自分がどういう役割を担うべきか自ら任じて動くべし、ということであって、むしろ「自己使命論」というべきものである。氏自身も強みを活かして稼いでいた証券の仕事をやめ、自らの使命と信じる文筆業に身を投じた。

いわゆるネオリベやリバタリと異なる点は、社会や組織、共同体の機能を重視することにある。ドラッカーは人の幸福にはそれらが不可欠だと考える。従ってそのよりよい運営方法を追究した。これがドラッカー的経営観である。また氏は多元的な構造とその自律および拮抗を重視した。

全体主義社会主義と異なる点は、社会や組織をあくまで人の幸福のための手段と見ることにある。だから社会や組織は必要ではあるが、その仕組みや入れ物自体を守ることを目的としない。人のために必要ならばどんどん壊して作り直していくべきであり、それがイノベーションとなる。

これらはあくまで私が理解するドラッカーではありますが、たとえば
マネジメント1 務め、責任、実践 (日経BPクラシックス)
を読んでいただければ、ドラッカー思想のアウトラインが分かりますし、大枠で間違っていないことを確認できるかと思います。
日本で割と人気のある「プロフェッショナルの条件」以下の3部作は、どちらかというと自己啓発的な部分をつぎはぎした寄せ集めの文集であり、真剣にドラッカー的マネジメントを理解したい方にはお勧めしません。

「経営が分かっている社会と、分かっていない社会の格差が拡大していく理由」

ふろむだ氏のエントリですが、前半のネオリベ云々のくだりはなんだか10年前の演説を聴いているような感じでした。ネタにしてもそのセンスちょっと古くないですか?
昔、ダメなサヨクが「労働者=善・正義」にしてしまったのとちょうど裏返しで、「経営者=善・正義」にしただけの話ですよね。
私はどちらが一概に善とか正義とか思っていません。しいて言えば、以前ペンと剣の話で書いたように、「力の拮抗・均衡」こそが次への工夫を生むと考えています。その意味において組合のような活動もあってしかるべきだと思います。ドラッカーもまた、組合の持つ拮抗力は経営にとって必要だと書いています。そこまで含めて「マネジメント」なわけです*1
組合とて経営側の考えていることを学ぶべきだと思いますが、それは自らの役割を正しく果たすためにこそ必要なんです。また企業や経営者は必ずしも「長期的な」利益を追うわけではない、という点も指摘しておきましょうか。
本を丁寧に読めば、ドラッカーが論じているのは
「経営が分かっている社会と、分かっていない社会の格差が拡大していく理由」
であることが分かると思います。氏はそもそも個人の成功について語っているわけではないのですよ。

日本がテクノロジスト社会にならない理由

次にfinalvent師匠の話。ふろむだ氏に遠慮してか韜晦味が強すぎる気がするんですが、まず重要なのがテクノロジストの件。

ぶっちゃけていうと、ドラッカーも言っているけどテクノロジストと企業とは対等の位置になる

ドラッカー知識労働者(専門的な知識・技術を身につけて仕事をする労働者)=テクノロジストが今後先進国の価値生産の大部分を担い、政治的にも大きな力になると予言しました。
例えばネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまるにこうあります。

やがてこれら多様なテクノロジストが、あらゆる先進国において最大の層となり、五〇年代、六〇年代の組織化された工場労働者の地位を占めることになる。

アメリカにおいてはまさにその通りになりつつあります。
一方日本ではテクノロジストに相当する技術者研究者はそれなりにいるにも関わらず、finalvent氏の言うように「テクノロジスト社会」になっていません。
本にはさらにこうあります。

たとえ働いている企業、大学、政府機関を誇りにしていたとしても、本当に属しているのはそれらの組織ではない。彼らは同じ組織にいる他の分野の者よりも、他の組織にいる同じ分野の者との間により多くの共通点を持つ。

アメリカは、こちらのエントリでも分かるように強い自治と共同体の国です。それも日本的なムラではなく、より機能的なそれです。
つまり私が以前日本の理系が敗北するたった一つのシンプルな理由で書いた各種の横断的な組織や団体こそが、アメリカのテクノロジスト社会を形成しているのです。
知識があったからといって、それだけで大組織と対等になれるわけではありません*2。それらの知識によって横断的につながった共同体がバックにあるからこそ、テクノロジストは企業と対等になれるのです*3
アメリカに住むドラッカーにとってこれらはあまりに当たり前のことですから、日本でのその困難さは分かりにくいのでしょうね。
氏は国家による福祉は多様化した現代のニーズを捉えることができないため、NPOがそれに取って代わると論じています。が、それもアメリカの強力な自治文化を背景にしていることは覚えておいた方がよいと思います。
ドラッカーは日本においては終身雇用が同等の役割をすると考えていたようです。しかしそれが崩壊した今、セイフティネットとして日本の貧弱なNPOだけでは不十分ですし、アメリカ並みの自治意識とシステムが根付くまでは、政府がその役割を担わざるをえないでしょう。もっとも国は国民にそういう自治意識を持って欲しいのかどうか怪しいところですが*4

非営利組織の経営ってどうよ

で最後にmojimoji氏のエントリで、大枠で正当な反論だとは思うのですが、私自身は非営利組織の「経営」についてはもっともっと考える余地があると思います。
例えば日本の労働組合は長らく非正規雇用のサポートをしてこなかった*5。これはドラッカー的にいえば使命を果たしているとは到底いえません。
大学だって日本社会の中でどういう役割を担うべきか?きちんと考えてきたとは思えません。
資源の足りない中、政府を動かそうとすればそういう戦略をとるべきか? 訴えるだけでよしとしていないか?
まだまだドラッカー的に考える余地は沢山あると思います。


というわけで長くなりましたが、ドラッカー第三の道として有効である、ということについては大いに賛成いたします。
が、相変わらず都合のいいところだけツギハギする日本的ドラッカー受容についてはうんざりですね。
ドラッカー自己啓発にあらず。もっと奥深い何かだ。
どっちかというと社会啓発というべきでしょうね。少なくともネオリベだのサヨクだのといったレベルで捉えるべきものじゃない。
ただ氏が亡くなっている以上、あとは読み手の受け取り方ということになるのは仕方ありません。いずれにしても、ドラッカーを読んでくれる人が増えるのであればいいじゃないですか、ふろむださん。
私は上の一冊をまずはオススメしときます。


関連:マネジメント、トリアージとドラッカー

*1:この辺は日本じゃなぜかアンタッチャブル

*2:ドラッカーのいうテクノロジストは決してスーパー技術者ではない。

*3:ここではじめて企業ごとの労働組合の役割が終わるというわけ。

*4:自治意識が根付けば、当然ながら組合活動や住民運動も活発化する。

*5:戦後日本の主流だった企業内労組。