地獄への道は「間違い」で舗装されている

どうも、ご無沙汰です。
実はこの夏に結婚することになりまして、引越しその他準備に忙殺されておりました。というかまだしばらくわたついております。豊かな対幻想の構築に向けて鋭意努力する所存であります。
結婚も地獄のなんとかという話も多いですが、ネットあるいははてな界隈では
地獄への道は善意で舗装されている
というアフォリズムが特に人気があるように感じます。「モヒカン文化」とも関係あるのかもしれません。
例えば、こちらとか
白雪姫にしろカチカチ山にしろ、確かに人を騙す時に悪意を丸出しにするわけはなくて、毒リンゴやババ汁はたいがい善意にコーティングされていると。
それは一面そうなんですが、一方善意によって白雪姫は生かされるし、狸も退治されるわけです。
沈黙の艦隊」のラストでベネット大統領は海江田の「人間は悪意より善意が上回っているか?」という問いにYesで答えますが、リアリストのベネットによるこのYesはもちろん性善説などではなく、総量として善意が上回っていなければ人間の社会は成立しないということなのでしょう。物質が反物質を上回って初めてこの宇宙が生まれたように。
アフォリズムというものは一種の遊戯的極論ですから、「地獄への道は善意で舗装されている」もネタの一種で、むしろ「善意から」マジメに「地獄への道は善意で舗装されている」と強弁するのはおいおいという感じになってしまいます。
正面からいうとすれば、地獄への道を舗装しているのは善意ではなく「間違い」です。

  • 河川を浄化したいという善意そのものは結構。しかしその目的を達成するための方法を「間違え」ると汚染は悪化します。
  • 創造的な教育をしたいという善意は素晴らしい。しかし資源の投下やカリキュラムを「間違う」と、いわゆる「ゆとり」教育になってしまいます。
  • ベンチャーを促進したいという善意は上々。しかし単に大学院定員を膨らすだけでは「間違い」であって、深刻なポスドク問題を生み出しました。
  • チベットの状況を改善したいという善意は否定されるべきではない。しかし「出て行け中国人」はその手段としてどうなのか?

つまりチェックすべきは常に「善意・目的」と「結果」をつなぐ「手段・方法」なのです。まあ「一心不乱の大戦争」とか明らかにヤバイ「善意・目的」を主張する人は別ですがね。
地獄への道は「間違い」で舗装されている。
もちろんこの「間違い」はイデオロギー的なものではなく、合理的な妥当性ということです。そして、単純な善意の否定にも合理的な妥当性はないと思うのです。