志願〇〇

さて、前回のエントリで割と乱暴に斬ってしまった内田樹先生の例の。油を注いだ気がしないでもないので、もう少し丁寧に追ってみましょう。
まず第一に、他者からの「承認」。これはもちろん重要です。社会的動物である人間の多くは、コレがなくては幸福感が得られません。
しかし、「承認」は決して「労働」の目的ではありません。
労働とは、古くは労働力を提供しその対価を得ること、現代ではもう少し拡張して「価値」を提供しその対価を得ること。まずはコレです。
その上で「承認」も得られるなら、それは実に結構なことです。ラッキ〜。
しかし、「承認」は労働からしか得られないものではありません。趣味、家族、友人、ルームメイト、恋人、動物、芸術、etc・・「承認」のチャネルは人それぞれ、本来多様です。それを労働にフォーカスしたいのは一体誰でしょうね?
「承認」と「労働」をまさしく交換する場が一つあります。
あまり正確ではないし使いたくない言葉ですが、それは「カルト教団」です。教祖のために身を粉にして働き、聖なる「承認」をいただく。時には命も捧げる。なんだか「教団化」した会社って最近よく目にしませんか? あれって内田先生の理想ってことですよね。
まあそういう理想を持つのは自由ですけど、僕は御免だなぁ。
ちなみに、ああいう発想ってデフレを促進するんじゃないかなぁ。何しろ「労働」で「承認」を得ちゃって給料も要らない、なんていってたら需要なんざ伸びませんよ。
百害あって一利くらいはあるかも、ってとこですね。