倫理の根源は想像力にあると思う

mojimojiさんからTBをいただいたので応答しておこうと思います。
まず、前回森岡さんの土俵に乗るつもりがなかったので直接書きませんでしたが、森岡さんの問い

ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか

への答えは「言える。ただし、加担していない、とも言える。」になります。可能かどうかということであれば、いずれも可能というしかありません。
倫理や責任の根拠の一つに「因果関係」は確かに使われるけれども、それは必ずしも堅牢なものではないことは何度か書きました。
ではその他の根拠は何かというと、あと2つほど考えられると思います。

  • 一つは社会運営上のルールとしての根拠。

これがmojimojiさんが批判される

法的責任や倫理的責任は、制度として「創造される」

という側面にあたります。
が、mojimojiさんも

こういう議論に接して疑問に思うのは、私たちが法的責任や倫理的責任を考え始める、まさにその瞬間において私たちが感じているあの重苦しさとは、一体何なのか、ということである。

というように、それだけではない。

  • もう一つがより根源的だと私が思う、「想像力」です。

例えばわれわれは、どんな対象に対しても等しく慈悲や同情を感じるわけではありません。
ヒトはもちろん、犬や猫にも多くの人は情を感じますが、魚に感じる人は少ない。ハエに対してはもっと少ないし、インフルエンザウイルスに対して感じる人は皆無でしょう。
倫理的な責任を感じるとき、そこには「想像力」におけるいくつかのステップがあるのです。

  1. まず、それが自分と同じ、あるいは近い存在だと感じられること
  2. そして、相手の立場に自分を置いてみること
  3. さらに、その困難な状況が自分にも起こりえた、起こりうると感じること

これらのステップをクリアして初めて、「重苦しさ」を感じることが出来るのです。インフルエンザウイルスに対してはこれらの想像力を働かせることができないため、いくらタミフルで叩こうと痛痒は感じません。
ここで問題なのは、こういった「想像力」は一種の「能力」であって、万人に共通ではないということです。
mojimojiさんは「私たちが感じているあの重苦しさ」とおっしゃいますが、必ずしも誰もが感じているわけではない。感じていても、程度は様々でしょう。
言葉があれば一応誰でも状況だけは想定できるでしょうが、やはりできない人は感情を伴う「想像」ができないのです。
例えば森岡さんも「非モテ」というものが想像できないようですし、あるいはいわゆる「強者」が「弱者」に対して1〜3のような「想像力」を持たない時、いくらでも冷酷な仕打ちが可能となるのです。
そして奇妙な話ですが、多くの場合「想像力のある」人もまた「想像力のない」人を「想像できない」。
結局、極端な状況を出してきたり、単に「重苦しさ」について語るだけでは、「感じる人は感じるし感じない人は感じない」というだけのことになるんではないかと思います。
自分はこう感じる、はいいとして、「感じない」人に対して「感じるべきだ」と言ってもあまり意味はなく、できるのは「感じない人でも感じるような方法」あるいは「感じなくても倫理を構築できる方法」をなんとか考えていくことなんじゃないかと。


ここからは余談になりますが、もともとこういった「想像力」や「共感力」、もう少し詳しく言うと「自分の中で他者の感情をシミュレートする能力」、というのは人間が社会を作り、コミュニケートする上でこの上なく重要な能力だったのでしょう。言語ですら、この「想像力」がなければ効率がガタ落ちです。
そして他者の感情をシミュレートする能力を得て初めて、人間は「倫理」を得たのではないでしょうか。
これらの能力はもともと個人の資質や技量によるところが大きい「アート」だったと思います。
ところが近現代において「心理学」や「マーケティング」が勃興し、「サイエンス化」すると、自分の中でシミュレートすることなしに他者の感情を操作することが可能になってきます。
それまでも突然変異的にそういう人はいて、例えば天才詐欺師や、他人には極めて魅力的に映るシリアル・キラーなどがそうでしょう。被害者への共感なしに、被害者の感情を操作するのです。
「感情のサイエンス化」が進むと同時に、よく言われているように「労働の感情化」が始まりました。
ここでは、手際よく沢山の他者の感情を操作することが望まれます。であるならば、いちいち「共感」「シミュレート」していてはコストが大きすぎる。
他人にいちいち共感せず、サイエンス化した「感情操作技術」を用いてマスを捌いていくことこそが「仕事」になるのです。
そして、「倫理」の根源たる「想像力」も失われていく。
まあいわゆる進化心理学的妄想ですが、こんなシナリオもありうるんじゃないかと「想像」しちゃうわけです。