経済学と科学リテラシー

経済学とニセ科学問題
経済学にもコミュニケーターが必要なんですね

このあたりプラス、先日のコメント欄の議論を踏まえて少々。
コメント欄のお話ですが、私とluke_randomwalkerさんたちの話の「噛み合わなさ」には一つの大きな要因があると感じています。
それはどちらが正しい、という問題以前に、話している階層が一致していないということです。
私は「個別の経済における適用の方法」について話をしているのですが、luke_randomwalkerさんたちは「経済学の中での知識」について話をしている。
この違いはたとえば医療などの実務に携わっている人にはわかりやすいのではないかと思います。
医学知識というのはたくさんの患者さんや症例を統計的に検討して、「共通性がある」と判断された知識です。当然、治療の際には踏まえておく必要があります。
しかし、個々の患者さんは多様で治療の際に教科書通りのデータばかりが出てくるわけではないし、マニュアル通りにやればいいわけでもない。
医療の目的は教科書のルールを守ることではなく、個々の患者の治療にあるわけですから、たとえ「教科書的」に確立していなくても、患者に合わせた処置を考える必要があります
それこそが医療が単純に機械化できない理由であり、医療者に「アート」が必要といわれる理由なのです。
これは本来的な意味での科学リテラシー=科学の使い方」の問題といえます。

  • 科学は(主に)物事の一般性、共通性を追い求めます*1

また、

  • とりあえず手に入る数値やパラメータを使って絵を描きます。

それは世界そのものとはいえませんが、世界の大雑把な姿をとりあえず根拠に基づいて描くことができ、そのやり方が成功したからこそ現代文明があるわけです。
ただし、数値の上下のみを眺めていた投資銀行が失敗したように、あるいはがん治療に統一モデルが存在しないように、抽象化された科学モデルを扱うことと、多様な個別世界の問題を扱うことは違うのだという認識を見失うべきではありません。
科学知識の構築と、その知識の適用は別の問題だということです。
コメント欄の議論でいえば、私は日本という固有の国民の豊かさを記述し、改善するために経済学や科学のどういう適用をすべきか、という話をしていたわけで、これに対して経済学の教科書ではこうなっている、ということを言われても噛み合うはずがないのです。
教科書通りでよいという主張ならば、なぜ教科書どおりでよいのか、ということを説明する必要があるわけです。
再び医療現場を考えましょう。この患者さんにどういう処置をすべきか、何をどのくらい投与すべきか、という時に、「教科書に書いているから」、だけでは医療者として不適格です。
病状、体格、体質、環境を考慮し、かつ患者さん自身の意向も配慮したうえで、教科書の事例と一致するので、教科書通りにします、といわねばなりません。
経済学者がもし政策に関与しようとするのであれば、まったく同じプロセスを経る必要があると思います。
この意味において、科学者に科学リテラシーが必ずしもあるとは思いませんし、経済学者にも経済学リテラシーが常にあるわけではないと考えています。
もちろん経済学の教科書レベルの知識が無駄だとも不必要とも思いませんし勉強はいくらしてもしすぎることはないでしょうが、それを無批判に個別の事例にあてはめようとするのであれば、せっかくの科学も猫に小判というかのび太にスペアポケットというか、権威があるぶん場合によってはニセ科学よりたちの悪い事態を引き起こすかもしれません。


ついでに、教えていただいたオークン則や潜在成長率の件も少し。
調べた限りではオークン則というのはアメリカの実質GDPと失業率との数値における経験則であって、因果関係すら明らかになっていないものですよね。参考にするのはよいと思いますが、それほど依りかかってよい根拠とは思えません。
さらに潜在成長率というのも一部の学者による推測値です。しかも生産側の要素からの推測です。これを高めるような政策がイコール日本国民の生活を豊かにするか否か、というのは決して単純にいってよいものとは思えません。

経済学のモデル自体は偉大なものだと思いますが、その適用運用に関しては経済学者であれ専門家とはいえないようだ、というのが今のところの感想です。


参考までに以前書いたこと。
「科学としての経済学」のトリセツ

*1:特に生物においては多様性を記述することも重要な科学分野ですが