基礎科学が種まきだとするなら日本に必要なのは苗を育て収穫しおいしく料理して食卓に届ける仕組みだ

まさにタイトル通り。
週末は出張と博士ミーティングが連続して仕分けについてはリアルタイムでは見ていないのですが、ついった等で概要は把握しました。
緊急メッセージ、未来の科学ために
本職の研究者ではない榎木氏が真っ先に動いているということが象徴的。第一声としてはバランスの取れたよい文章ではないしょうか。
科学は重要だし、わたしもその末端でメシを食わせていただいているのでもちろん守りたい。
社会的に発言すべきということはかねてより言い続けてきたことなので、それも大歓迎です。
ただせっかく科学者なのだから、科学者らしさをいかすのも悪くない。
科学研究でなにかを考える時には、「これまで何があって、今どうであり、これから何をすべきか」を押さえておくのがいろはです。
日本の科学政策でなにが起こってきたのか、ざっと把握するには以下のエントリがよくまとまっています。
博士はなぜ余るか? 日本の科学技術政策の10年に関する覚え書き

大学院重点化と科学技術基本法のそもそもの目的は、単純に「基礎研究ただ乗り論」に対応して、日本の基礎研究のスケールを予算面でも人員面でも他の先進国と遜色ない程度に引き上げることであった。だから、科学の方向性や育成される人材の種類については何も言っていない。従って、その方向の施策も特に用意されているわけではなかった。

筆者の意見には異論があるかもしれませんが、事実関係としては大体こういうことでしょう。
欧米では80年代より、いわゆる中央研究所型基礎研究から、大学と組んで多様なシーズを積極的に社会的活用するシステムへと大きく転換しました。
もちろん相当なトラブルがあったのでしょうが、苦闘の結果ジェネンテックやアムジェンといったバイオベンチャーが誕生し、シリコンバレーが生まれ、やがてはGoogleが登場するまでになったわけです。
80年代の日本はバブルで浮かれていましたので、欧米のそういう動きには鈍感でした。バブルがはじけてようやく、「何か変えねば」ならないことに気づき、アメリカから「基礎研究にただ乗りしている」などと圧力がかかっていたこともあって、あわてて大学院重点化・基礎研究の拡大を目指しました。
基礎研究は「種まき」にたとえることができます。欧米が80年代にやったことは、大学が沢山の多様な種をまき、それを社会や産業とともにうまく育て上げて収穫、調理するシステムの構築でした。
確かに日本も種をまくようになりました。それは素晴らしい。ただ、ヘリでばばばとまいたはいいが、その後のケアをする仕組みを忘れていた。
多くの苗が立ったまま枯れてしまったり、せっかく育ちそうでも美味しいところは欧米に収穫されてしまったり。
俗にみれば、iPS研究は基礎レベルでは明確に日本の勝利です。
しかし実用面ではすでに日本の敗北が聞こえてくる状況になってしまっています。この30年のシステム構築の差があらわれているのです。
種まきはもちろん必要。
しかし、種をまけば自動的に食卓においしい料理がならぶわけでもない。
苗を育て、収穫し、輸送し、加工し、うまく料理し食卓に運んで、はじめてディナーがいただける。
そういうことを担う人材や仕組みや雇用が足りない、というのが今の日本の科学技術における最大の問題だと思います。
それを誰がやるのか?
もちろん科学者自身ですべてやれるはずもない。しかし、科学技術のことを一番よく分かっていると自負する科学者がアイデアを出さないなら、誰が動くのか。政治家と官僚にまかせる?
批判も文句も悪くありません。何も言わないよりはいい。
しかし科学者側にこういう問題についてのアイデアや行動がないのであれば、仕分けるまでもなく日本の科学は持続困難なのではないでしょうか。
1999年の「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」以降、科学に社会的活用が求められるのは世界的趨勢です、中国やインドのような成長国ではなおさらそうでしょう。
この問題を避けては基礎も実用もない。
種まき人と料理人が殴り合っても美味しいディナーは決して出てこないのです。