たぶん科学リテラシー以前に生活リテラシーが必要なんだと思う

本当に一般人に科学常識は必要なのか。
科学知識や科学リテラシーがあったほうがいいか、というと、もちろんあったほうがいいですよ。
政治や経済や歴史や心理や法律やITや語学や芸術なんかの知識やリテラシーがあったほうがいいのと同じく。
ただし、現代は複雑で巨大で、すべての分野で専門知識をマスターするのは不可能。
当の科学者であってすら、自分の専門以外で十分なリテラシーがあるとは限りません。
だから教育において「まず」教えるべきは、もっとヒューリスティックな「生活リテラシー」とも言うべきものではないでしょうか。
たとえば正確な科学知識がなくとも、また多少は怪しいものを買ってしまったとしても、本当に危ないところまではいかないようなセンス。
世の中見わたしてみると、正確で厳密な知識がなくても、危ないものはうまく察知してするりと回避してしまう人がいますよね。
世間知とか呼ばれることもあるのかもしれませんが、単なる世渡りテクニックというよりはもう少し誠実なリテラシー
ちょっと考えてみるとたとえばこんな感じでしょうか。

  • 極論ではものごとは解決しない

世の中実際の問題というものは、ほとんどがバランスや程度のコントロールによって解決するものです。極論は耳にはキモチいいですが、問題解決の手段としては大体下策と思ったほうがいい。筒井康隆のようにフィクションの中で楽しむのが吉。

  • 一つのモノや見方ややり方に頼らないほうがいい

上と似たようなことではありますが、現実の問題はいろんなファクターやいろんな条件の絡み合いでできています。だから一つのモノやコトですっきり全部解決、ということはないと思ったほうがいい。だからこれさえあれば何でも解決、みたいな意見はとりあえず話半分で聴いときましょう。

  • 少しためして経過をみる

とはいえ、いろいろ試してみたいのは人の情。もしかしたらよい結果がでるかもしれない。そんなときはいつでも引き返せることを確認して、少しだけ試してみましょう。そして悪影響が見られたり、コストがかかりすぎるようなら速やかにやめて再検討。自分自身をよくモニタリングするセンスが大事です。

  • どんな人にも偏りがある

どんな人であれ、どんな意見であれ、すべての立場やバイアスから解き放たれていることはないと思ったほうがいい。というのは別に、「誰も信じるな」ということではなく、たとえ意図的にポジショントークをしているのではなくとも、神様ではない人間がなにかを考えたり言ったりするときには自分の見える範囲や経験を元にするしかない、ということ。むしろ、そういういろんな立場の意見を集めてこそ全体像が見えるのだと考えたほうがいい。

詳しい知識以前にこういうセンスを身につけていると、たとえ少し間違ったとしても修正できるし、危険な領域にまで達することなく済むんじゃないでしょうか。
人間力」とか「生きる力」とかいろいろありましたが、あまり大上段に構えずともこの程度の「生活知」「人生知」を早めに身につけておくのがいいんじゃないかなぁ。*1

*1:もちろん科学知識の必要性は否定しません。他のいろいろな知識と同様に、できる範囲で勉強すべきだし、最低限のガイドラインはあるべきです。