「名誉」はゲーム続行のからくりなのかも

なと思ったり。
囚人のジレンマによると、

ゲームの繰り返し回数nを両方の囚人がともに知っていた場合は、全ての回で囚人がともに「裏切り」を選択する事が分かっている。

不確定要素はゲームにおける戦略・振る舞いに強い影響を与えますが、特に「残り回数」というのは大きなファクターだと考えられています。
「残り回数」。
いやな言葉ですが、人間にも「残り回数」は厳然として存在します。
人間の死亡率は今のところ100%なわけで、どんな人であろうとゲーム/関係の機会は有限です。とはいえ、若い時から自分の残り人生をカウントすることはあまりないでしょうし、カウントしてもブレが大きいのでその量的な有限性を明確に意識することはありません。
しかし、40を超え、50にたどり着く辺りから、「カウント」の冷たい音がカチカチと聴こえはじめます。
もはや漠然とした有限性ではなく、確実で明確な「残り回数」が見え始める。
ここで、死ぬまでの利益を最大化しようとすれば、上の原理より「合理的」な戦略は「裏切り」にならざるを得ません。
「世代間対立」
残り回数が明確になったプレイヤーは、利益を最大化するために「裏切り」を選ぶ。もしこれが世の中の様々な場面で立ち現れている「世代間対立」の根源だとすれば、そのまま「ゲーム」を続けていても事態の打開はありえない。
赤木智弘氏が「戦争(=ゲームの破壊)」を主張し「平和(=ゲームの続行)」を憎むのはこのように理解することもできそうです。
しかし考えてみればこういう構図は普遍的なもので、確かに日本の人口構成は歴史上類を見ないものではありますが、いつの時代も老人は権力を握り、「残り回数」をカウントしていたはず。
だとすればこういう事態を回避する社会装置があるんじゃないか、と考えてみて思いついたのが「名誉」です。
「人は死して名を残す」という言葉がありますが、「名誉」というものは本人が滅しても残り、歴史や記憶の中で永遠に「ゲーム」を続行します。
つまり、「名誉」のゲームは残り回数が分からない。
このことは、たとえ死が近づいても「裏切り」を選ばない理由になりえます。
武士道にしろ騎士道にしろ、「名誉を重んじる文化」というのは、このように必然的な世代間対立を緩和し、社会を協調的に働かせる効果があったのかもしれません。
さて、では「現代の名誉」とは…?