私達は一人一人「中国語の部屋」に生きている

中国語の部屋」というのは哲学者ジョン・サールが提起した思考実験。「意識」を議論する時によく出てきます。
ごく簡単に説明すると、

  • ある箱に、中国語を全く知らない人が入っている。
  • 外の(中国語を解する)誰かがその箱の中に中国語の会話や質問の書いたカードを差し入れる。
  • 中の人はカードに書いていることは全く分からないが、箱の中には例えば

「$¢£%#」と書いてきたら「☆★○◇▼」と返せ

のような「受け答えマニュアル」が用意されていて、何か分からないがとにかくその通りに書いて外に返す。

  • すると、中の人は意味も内容も全く理解していないに関わらず、外の人は「箱」と完全な対話をしていることになる。

またこの話は人工知能の文脈で語られることも多いようです。完璧なデータベースを備えた人工知能との「会話」は本当の「会話」なのか?といった感じでしょうか。
では、私達人間はこの「箱」から本当に解放されているのでしょうか。
私達は「会話」し、「対話」し、「コミュニケーション」します。
それはお互いの意見や主張、意味や価値を「理解」して行っているものだと自然に考えています。
本当だろうか?
人は意見に対し、同意し、反発し、喜び、怒り、賞賛し、反論します。しかしそれらは「マニュアル」があれば可能なことではないだろうか?
私達が実際にやっていることは、世界に無数に転がる「箱」に対して、中国語のカードを出し入れしているに過ぎないのではないだろうか。
究極のところ、こういった疑問に答えはありません。私達は皆「箱」に過ぎないのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ただ、だからこそ、「感情を共有できる」という感覚は人に大きな影響を与えます。「感情を共有できる」ということは、「箱」の中には確かに自分と同じ人間が入っているということ。自分の言葉や存在の意味や価値が「理解」されているということ。
そう感じるのです。
そして「共有できない」ということにはそれだけで「自己の否定」を感じることがあるし、逆に「相手の否定」にもつながっていきます。
こいつは「箱」に過ぎない。
しかし、どんなに感情が通じた、あるいは通じないと感じても、おそらく人は「箱」から出ることはできません。
できるとすれば、長い長い間お互いにカードをやり取りした末に、この「箱」を信じようと自ら決めること。
最後は「箱」の中で一人死んでいく。それ自体は変わらないとしても、信じる「箱」を見つけることは少しだけ世界の意味を変えるのかもしれません。