百億の田舎と千億の世間

骨を埋めます
なんだこれ。
私もこれまで地方都市にしか住んだことがないけれど、こんなシチュはお目にかかったことないなあ。
ただ、それは私がド庶民だからかもしれません。「Kさん」がコネで「地元の最有力企業」に「確実」に入社できるところを見ると、かなりの名士の家柄なのでしょう。一般地方人じゃ絶対ムリ。
となると、これは田舎の問題なのか?という気がしてきます。それもないとはいえませんが、例えば東京の由緒ある家柄の子女が突如関東圏以外に永住の決意を固めたとして、似たような事態が起こらないのかな?
とはいえ、これがいわゆる「世間」の問題であることは間違いありません。
「世間」といいましたが、実際のところ、この概念には二つの貌があります。
1.幻想共同体としての「世間」
2.生活共同体としての「世間」
例えばこちらでessaさんは「世間」ヘイトをぶちまけているわけですが、ここで批判されている「世間」は徹頭徹尾「1」、幻想共同体としての「世間」です。
宮台真司「大いなるものに一体化したがるヘタレ」のことを「田吾作」と呼びました。これがつまり1の世間に生きる人々のことだと考えてよいでしょう。
「1の世間」を便宜上「幻想世間」と呼ぶとすると、この中の人たちは「大いなるもの」と一体化したかのようにその幻想への「帰依」を構成員に強い、布教し、幻想からの離脱を許しません。
いわく、
「村の掟」・「故郷の土」・「会社のため」・「市場*1」・「公」
結局、幻想世間は田舎のみならず、日本に遍在しているのです。
もちろん、幻想そのものを無くすことは不可能です。社会とて一種の幻想から成り立っていますから。しかし「システム」としての幻想ではなく、「大いなるもの」としての幻想を使いたがるのがこれら「田吾作」、幻想世間人の特徴なのです。
こちらの「世間」を破壊するのは大いに結構。「大いなるもの」を騙って人や世の中を動かそうとする田吾作さん達には早めに御退場願いましょう。それこそが真の集団知システムを作動させる大前提ですから。
一方で、「2の世間」=「生活世間」は生活を支えるための共同体であり、壊すどころかむしろ今後の日本で一層重要になってくると考えられます。先日も述べましたがアメリカ型の社会に舵を切った今後の日本でおいては「合理的な連携」が命綱になってきます。気をつけねばならないのは、そこに「大いなるもの」を介在させないこと。それが混入した瞬間、「幻想世間」が侵食を始めます*2
個人の心の中に「大いなるもの」を持つのは結構ですが、それを集団の原理にしてはならないのです。
とりあえず、てらいもなく「公」なんて言い出す人には要注意ですな。

*1:市場を道具としてその仕組みを理解し利用するのではなく、それに「帰依」してしまうと田吾作化する。Webも同様

*2:2年前にも書いた気がするがhttp://d.hatena.ne.jp/sivad/20050325#p1