真実と倫理と責任と。

mojimojiさんから再応答をいただいた
おっしゃることはよく分かるのだけど、私にはまだ少し違和感があります。

他方で、自己欺瞞をうまく扱えない人がいる。そういう人がたくさんいる。

こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。

前回の文脈でいうならば、世の中には「倫理的な責任」を

  • 「感じない人」
  • 「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」
  • 「どうしても感じてしまう人」

がいて、「どうしても感じてしまう人」に気休めを言っても仕方ない、ということだと理解しました。
しかし、それは同時に、「本当はできるでしょう?」などという必要もないことになります。言おうが言うまいが「感じてしまう人」なのですから。
結局、「感じない人」や「どうしても感じてしまう人」に対しては倫理的な呼びかけ自体が「役に立たない」といえるでしょう。
となれば、「多少は感じる、あるいは感じるけど切断できる人」に対してどう呼びかけるか、が最も重要なポイントになります。
私はそれが「切断操作」を引き起こすような「呼びかけ」であれば失敗であり、より深くかつ実際的な思索をもたらすのであれば「成功」といえるのではないかと考えます。
その点でmojimojiさんの

必要なのは、自分を責めるでもなく、切断処理をするのでもない、別の道である。それがどのようなものかは分からないが、それは「その先に問題の解決があるような」道であろうと思う。

には全面的に賛成です。
が、そのためにこそ、因果関係と責任関係を峻別する必要があるのではないか、というのが私の考えです。徒に「責任」を振り上げることは切断操作を招くだけではないかと思うのです。
「責任」という概念を持ち出さずとも、他者を思うことは可能です。それが「想像力」であり、「呼びかけ」としては「想像力」を喚起するので十分ではないかと思います。
ただ実際には「感じる人」「感じない人」というのは単純に区別できるものではなく、状況や環境、時期や体調によっても変わるものです。
だからこそ、単純な状況で性急に踏み絵を迫るやり方は失敗します。倫理を考えることは「重苦しく」、人は反射的な条件では「重苦しさ」を避けるからです。
真実と共に生きたいとは思います。
しかし科学という営みを見れば分かるように、真実とはそう単純ではない。
論理とイマジネーションを積み上げてやっとおぼろげに見えてくる。そういうものです。
そしてその先にこそ「問題の解決」があるのではないか、と私は思っています。