「呼びかけ」は無謬だろうか?

再びお返事をいただきました
やはり違和感があります。
この違和感は埋まるものかもしれないし埋まらないものかもしれませんが、この対話は論破や説得を目的としたものではなく、違和感を明らかにすること自体を価値と考えます。
まず、前段に関しては、おっしゃるとおり。
ただ、その部分はmojimojiさんの前回のエントリ

こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。

という辺りも受けていますので、「感じる人」「感じない人」の判別不可能性をいうのならここでもそれを適用し、「仕方ないんだよ」ということの意味を認める必要があると思います。
その上で、前回のように区別する必要が少ないことには同意します。
ただし、「完全に判別」することは出来なくとも、ある程度「判断」することが無意味だとは思いません。「呼びかけ」の方法について考慮する余地があるからです。
われわれは神ではなく、一言であまねく魂に響く言葉を発せられるわけではないのですから、できるだけの工夫をして「感じてくれる」可能性を高めなくてはなりません。
もちろん、その方法は一つではなく、またどの方法が絶対に正しいということはないでしょう。
ですから私もmojimojiさんの方法を封じようなどとは思いません。ただし、私にも私の判断があるということです。そしてそれは必ずしも傲慢だとは思いません。

では、sivad氏が言うような成功/失敗は、いつ、いかなる手法で、誰が認定することなのだろうか。

これについても同様です。成功/失敗は、個々人が個々人のやり方で判断するよりありません。認定ではない。判断です。ですから絶対ではなく、後に間違いに気づくこともあるでしょう。
しかし仮ではあれ、ある程度「判断」しながら進んでいかなくては、物事は混沌のまま、変化を起こすことは難しいと思います。まあこれも私の「判断」です。

切断操作を引き起こす呼びかけは、多大なる成功であるとまで言えるかどうかは評価が分かれるとしても、少なくとも失敗とは言えない。

その示されてしまったものが、次の呼びかけの橋頭堡となる。

これはmojimojiさんの判断であり、確かにそういう場合もあると思います。が、私はそれが「次の呼びかけの橋頭堡」を破壊する、あるいは「ニセの橋頭堡」を作り出す可能性をも持っていると考えます。
「切断」というのは単に反発することではありません。それに対する「想像力を断つ」ことです。想像力の働かないところには倫理的態度は生まれない。そしてそこには功利的態度が残ります。例え社会的形式的な応答としての「言い訳」や「逆ギレ」があったとしても、そこに「想像力」が働いていなければ「重苦しさ」を伴う「倫理」は発生しないのです。私はその場合はやはり「失敗」であると思います。
もちろん、コレが確実に成功だ、失敗だと認定する方法はやはりありません。
しかし、「失敗の可能性」は存在すると思います。
「失敗の可能性」を否定するということは、もし「失敗」が存在した場合に「失敗の回避や回復ができない」ことを意味します。
私はそれを問題だと判断するわけです。