最終警告!本当は怖い盲目的予定調和説

直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。
これはアレですね、はてなとかブクマとかやってる暇があったら仕事しろってことですね。あいすみません。
というのはまあ冗談として。
日本のネットに批判的言説が多いのは匿名性と関連あるでしょう。日本では実名の個人間で批判するリスクが高いわけで、その証拠に日本のリアルではむしろ馴れ合い型コミュニケーションが主流です。組織を背負わず、個人として面と向かって他人を批判できる人は少ないですよね。
つまりリアルにおける批判技術の乏しさがネット・匿名における批判指向性を高めていると考えられます。
弾さんのいうように的確な批判こそが問題解決に向かう。そもそも科学的思考には批判的思考が欠かせません。
確かに単なる揚げ足取りやアジテーション的批判は感情を煽るばかりで、何も解決しません。しかし同様に、ポジティブなアジテーションなら事態を改善できるというのも妄想でしかない
小室直樹氏は危機の構造―日本社会崩壊のモデル (中公文庫)において、日本の戦前・戦後に共通した失敗論として、「盲目的予定調和説」を挙げています。
そのエッセンスは

1.自分たちこそ国民から選ばれたエリートであり、日本の運命は自分たちの努力にかかっている。

2.この努力は、所与の特定した技術の発揮においてなされる。

3.したがって、この所与・特定技術の発揮においてのみ、全身全霊を打ち込めば、その他の事情は自動的にうまくゆき、日本は安泰となる。

そして、

社会の機能的要請は、多くの機能集団によって分担され、しかもこの機能集団は複雑多様であり、独自のメカニズムで作動するから、機能的紛争の生起は不可避である。しかも、社会全体における機能的要請の達成は、これら多くの機能集団間の分業と協働によりはじめてなされる。ゆえに、機能的紛争を未解決のまま放置すれば、社会過程の進行は阻害され、所期の結果は達成されえない。戦争中、軍事官僚はこのような社会の仕組みを理解しえなかった。彼らは、経済体系と軍事体系との間の機能的対立を理解せず、これを科学的に解決しようとはしなかった。そのため、軍需生産は思うにまかせず、ヤミは横行し、働いても働いても何か自然の理に逆らっているような感じは、一般国民の間に広がる一方である。

というわけです。
これなんてデジャヴ?
日本における批判様式の最大の欠点は、「姿勢」と「方法」をごっちゃにしてしまうことです。
正しい意志や姿勢があれば、その方法がどうあれ批判は「水をさす」ことにされてしまう。
また批判する側も、「方法」が間違っていると思えば同時に「姿勢」をも批判してしまう。
例えば「前進の姿勢・改革の意志」、これは評価されるべきです。
しかしながら、そのために持ち出してきた方法論については十分に吟味され、批判されねばならない。
梅田さんの「前進の姿勢」は素晴らしい。
しかしながら、「Web2.0」を煽れば日本は良くなる、という方法論はもっとよく吟味されねばならない。
小泉元首相の「改革の意志」は素晴らしい。
しかし、その政策が本当に日本のためになるのかはもっと精査されねばならなかった。
さらに小室は言います。

いわゆる苦労人、世間師などは、社会のことならなんでも知っていると思い込んでいる。はたしてそうであろうか。読者諸君がまだ若い青年なら、一度や二度は年長者に「お説教」を食らったことがあるだろう。お説教のタイプは大体こんなものである。「世の中というものは、そんなもんじゃねえぞ。・・・・・お前の心掛けは間違っている」。

つまり、この苦労人の論理においては、存在(つまり、現在あるがままの世間)と当為(つまり、是非善悪)とは全く同一視されており、存在そのものの当否が問われることはないのである。「世間ではそうなっているが、それは正しくないことかもしれない」という認識は、この苦労人の思考には全く入り込む余地はない。

このような心的傾向(これを「社会を所与とみる心的傾向」という)は、苦労人の認識ばかりではあるまい。未開人はいうまでもなく、前近代的社会に住む人びとの社会に対する態度は、おしなべてこのようなものである。この意味においてそれは、一種の自然的な心的傾向であるとさえいえよう。
だが、このような心的傾向を有し、このような考え方に立つ以上、社会科学的思考法は、決して起こりえないのである。社会科学的思考法はすぐれて近代的な所産であり、かかる心的傾向、考え方とは正反対に、次のように社会をみることから発する。すなわち、社会構造も社会組織も、すべて人間作為の結果であり、合目的的に制御されうるものである、と、このように考える。つまり、社会の習慣も風俗も規範も制度も権力装置さえも、すべて人間作為の所産なのであるから、それらは必要に応じてつくり変えることができる。このように考えるところから、社会科学的思考法はスタートするのである。

全くその通り。
特定の技術・方法信仰に陥らないこと。
社会条件を所与のものと受け取らないこと。
社会を局所モデルではなく全体のモデルで考え、総合的な取り組みにおいてそれを改善するように思考すること。
これこそが社会に対する、真の意味での科学的態度だといえるでしょう。
日本が連続で三度同じ過ちを犯さないように、なんとか頑張りたいものですな。


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