科学とは「地図」である

道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない
道徳やしつけの根拠は自然科学にある
ある意味、どちらも正しいけれど、どちらも正しくないといえます。
科学は、人間がある価値観に基づいて行動する際の「道しるべ」となり得ます。
すなわち、「どこに行くのか」「目的地」*1を決めるのは飽くまで人間だということです。科学は目的地の定められていない「世界地図」なのです。世界地図に「目的地」という地名はありません。どこに行くかは旅行者の決めることです。
そして、科学者とは「地図職人」を意味します。
倫理や道徳について語るということは、「目的地」をどこにするか、という話です。もちろん地図職人たる科学者もそれについて語ることはできます。道や地理には詳しいので、大変役に立つでしょう。ただし、「この道が早いよ」とか「この町はこんなとこだよ」ということに関しては優れていても*2、「ここを最終目的地にすべきだ」という点については飽くまで一人の意見者に過ぎません。
例えば、「人はどう生きるべきか」については科学は答えを出しません。一方、「こう生きたいのだけれど、どうすればよいか」という問いならば多少は貢献できるでしょう*3。つまり、根本的な価値基準が与えられたならば、科学はそれを実現する「手段」となり得るわけです。一方、「根本的な価値基準」自体は人間の主観に属するものであり、科学から導き出すことはできません。
また忘れてはならないのは、地図職人とはいえ、描く地図には主観が入るということです。お気に入りの道や町がやけに強調されていたり、気に入らない場所が白紙だったりします。それを意図的にやる人もいれば、無意識にやってしまう人もいます。一番危険なのは、「目的地」を予め書き込んでしまおうとする者です。脳や進化の分野はこれをやってしまいがちなので、特に注意が必要ですね。
こういった欠点を補うため、実際には複数の地図を使い、総合してできるだけ妥当な「世界地図」を作ろうとします。これが科学コミュニティというわけです。
で、そういう「地図の見方」をガイドしてくれるのが科学ジャーナリストだったり科学哲学者だったりするんですが、これが何故か日本では食えない。「地図職人」自身は「成果主義」「任期制」で日々ガリガリと地図を描く生活。たまに「語る地図職人」が出てくるのはいいけれど、たいがい自分のシュミ嗜好が炸裂してしまう。
結局は大学の再生がなければどうにもならないのでしょうけど、「復活の日」はまだまだ遠そうですね。
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*1:ここでは根本的な価値観を意味します。死ぬよりは生きたい、だとか、人類を存続させたい、だとか、尊厳を守りたい、だとか。

*2:最近は細分化が進んでいるので、実際には一本の道についてやたら詳しいだけだったりもしますが。。

*3:http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20061225/1167006469