進化論が科学であり、ID論が科学でない理由

科学が『ニセ科学』を糾弾できない本当の理由
進化生物学者と似非科学論者との決定的な違いに関して
師走でバタバタしておりますが、レスしとくべきでしょうから。。
まず科学全般について。
先日「地図」に例えたように、科学とは自然・社会現象を抽象化した「モデル」です。
従って、本質的に検証されたり反証されたりするのは個々の事実ではなく飽くまで「モデル」の部分なのです。
そもそも、現実を「抽象化」するのですから、必ず「切り捨てる」部分が生じます。地図が現実の土地でないのと同様ですね。どんな科学実験でも、100%理論と実験結果が一致することはありえませんし、重要視される「再現性」も、100%の一致という意味ではありません。完璧に同じ実験条件というものはこの世に存在しないからです。
あたかも盲人が象を撫でるがごとく、いろいろな人がいろいろな角度から検証してみて、やがてぼんやりとではあるが妥当と思われる世界の形が見えてくる。
科学とはそういった営みです。
だからこそ、「科学」の土俵に乗せられる「モデル」にはいくつかの条件が求められるのです。
その一つが「反証可能性」です。これは別にその説が不確かだという意味ではなく、
「そのモデルが間違っているかどうかを調べる実験が可能であるか」
という意味です。
進化論とID論はなによりもまず、この点において大きく違うのです。
現代進化論のコアとなる「モデル」は

  • 生物が子孫を残す際には遺伝子において突然変異が生じ、子孫の形質が変化して多様性が生まれる
  • 多様な個体群が生じるが、環境や生殖における「淘汰」によって、形質が特定の方向に収斂したり、環境に適した形になることがある

というものです。
コレを検証、反証するためにはどういう実験を組めばいいか。例えばある生物を何代か飼って、子孫の遺伝子や形質が変化しているかどうか調べる。また特定の淘汰圧をかけて、それに沿った形質を持った子孫が生じるか調べる。
何度やっても遺伝子に何の変化もなく、子孫の形質にも何の変化もなければ、進化論モデルは棄却されるでしょう。
地球上のこれまでの進化過程そのものを「追試」することはもちろんできませんが、この「モデル」自体は十分検証・反証可能なのです。そして現在までにもう数え切れないほど「再現」されてきました。
というか、現代の分子遺伝学者は毎日のようにこのプロセスを用いて実験しています。
例えばハエや線虫で「〜な変異体が発見された」という記事がありますが、その多くはこの進化モデルを使って見つけ出したものです。
よくやるのは、毒性のある環境に何代かさらして、生き残った系統をチョイスしてくるというやり方。
こんなのが典型ですかね↓
線虫糖転移酵素ホモログ遺伝子の「機能喪失」がバチルス毒耐性獲得をもたらす
こうやって耐性変異体を取ってきて、変異している部分の遺伝子を探し、毒が効くメカニズムを研究するわけですな。
またこういうモデル生物は大体一括管理してる施設があって、そこから分与してもらって研究するんですが、もらって長期間飼っていると研究室環境ごとに淘汰が起こって性質に違いが生じる、ってのも実験生物学者の常識です。
まあこういった理由から、地球の進化の歴史そのものは再現できなくても、進化論というモデル自体は立派に科学しているわけです。
んでID論創造論)。
こちらのモデルは「生物は何らかの知性によってデザインされ、作られた」というものです。
では「このモデルが間違っているかどうかを調べる実験」はどう組めばいいか?
・・・・。
ムリですね。「何らかの知性」という茫漠としたモノを持ち出されては、何とでもいえてしまいます。
つまりID論は「科学的に間違っている」のではなく、「そもそも科学的仮説ではない」のです。
ニセ科学が科学者から批判される理由は、それが「科学的でない」からではありません。科学的でないものなど世の中沢山ありますし、それはそれで何の問題もなく成立しています。
問題はその名の通り、「科学でないモノを科学のように見せかける」点にあります。
意外かもしれませんが、科学という営みは上に書いたようにかなりデリケートなものなのです。きちんと手続きを守ってこそその有効性が発揮される。
従って、手続きを守っていないモノを「科学」に見せようとするのは端的に言って詐欺行為と受け取られます。要はブランドのコピー商品です。
確かに科学は不完全ですが、だからといってそのブランドロゴをパクろうとする者を批判できないわけではない。
科学でないなら科学でないで、自分のロゴで勝負すればいいのです。それができない、したくないからこそ、科学ブランドをパクりたがる。そう観ることすらできるかもしれませんね。


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