自由とは批判を許すこと・批判は禁止ではないこと

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060521/p1

親は、子供の成長を阻害するような害悪を加えないかぎり、思い上がっていてもいいし、逆に謙虚であってもいい。科学的な態度である必要はないし、科学的な研究の知見を前提にする必要もない。しかし、一度その思い上がりによって子供を傷つけていることに気がついたときには反省をすべきである

御意。
それが科学的でない、という批判は結構。しかし、それだけで主観的な判断を禁止することはできません。子供に明らかな害がない限り、親は子に良かれと思うことを施す自由がある。そして、外野にはそれを批判する自由がある*1
自由とは批判を受けないことではないし、批判とは「力」で禁止することではない。
このあたりの感覚が昨今なんだか曖昧すぎるように思います。まあ、昨今、ではないのかもしれませんね。
日本では「(集団による)批判」と「空気による圧力(=禁止)」との区別が伝統的に曖昧でしたから。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20060415#p2
ここでも書いたように、「空気」の使い方はかくも難しいのです。

追記
例えば靖国参拝。違法・違憲の判断が降りない限り、首相であれ誰であれ参拝・不参拝の自由はあり、何者も「禁止」「強制」はできません。
しかし、それは「批判を受けない」ということではありません。不当な暴力や圧力にならない限り、言論による批判は自由であり、これまた誰にも「禁止」「強制」はできないのです。
「自由」とはそういうことです。

*1:もちろん、公で科学的でないものを科学的であるかのように教えるのは「ウソ」「害」ですから、禁止されてしかるべきでしょうけど