祭り・逸脱・資本主義

araikenさん周辺で、内田批判を基点に「祭り・逸脱」に関する議論が起こっているようです。http://d.hatena.ne.jp/sivad/comment?date=20050624#cここの議論とかぶるところもあるようですが、三者・・いや僕も含めて四者、「祭り・逸脱」というものに興味を引かれながらも、微妙にアプローチが異なっているのが面白いですね。
ざっと見た感じ、やはり僕が一番近いのはaraikenさん、逆に内田氏に最も近いのはきはむさんでしょうか。
ただ、きはむさんのエントリでは「祝祭・逸脱派」=「システムの破壊者」としてまとめているようですが、araikenさんや僕が「祝祭・逸脱派」だとすると、それはちょっと違のではないでしょうか。あるいは、それが定義だというなら、僕は「祝祭・逸脱派」ではないということになるでしょう。
araiさんは確かに「祭り」を前面に押し出していますが、それはアナーキズムとは異なるものだと感じています。むしろ、内田さんが唱える「身体性の回復」、または茂木氏の「クオリア理論」に近い。
僕についていえば、「奴隷制資本主義」は嫌いだし、今から日本でそれを推進することは自殺行為だと考えますので反対していますが、「資本主義」・・というより「自由市場」というシステムは今のところ最も優れた「富」の生産装置だと考えています。
つまり、「資本主義」は道具であり、そのあり方は一つではない、という認識が僕の考える「外部からの視点」ということになります。
この「外部」すら否定してしまうと、もはや僕たちは社会をコントロールできない、ということになるわけです。それはもはやニヒリズムです。
さて、では「祭り・逸脱」=「外部からの視点」=「身体性」=「クオリア」だとして、これらを資本主義と両立させるにはどうすればよいか。
おそらく、二つのアプローチがあるでしょう。
まずは、市場を多様化すること。これは単に規制緩和というだけではなく、ある程度市場参入障壁を低くしてやるような操作も必要となってくるでしょう。市場の多様化は、奴隷制資本主義ののっぺりした一元的価値に多様な身体を適合させるコストとリスクを多少は減らしてくれるでしょう。
次に、「好きなことを仕事にしない」。仕事は必ず資本主義的な量的評価をなされますし、その評価に応じて仕事が決まります。「好きなことを仕事にして」いると、多くの場合いつのまにか「仕事を好きにならねば」ならなくなってしまいます。内田氏のいう「承認」や茂木氏の「クオリア」はそもそも量的評価が不可能なものであり、資本主義の「外部」に位置するものです。従って、無理に「仕事=資本主義」からそれらを得ようとすると、ごく少数の幸運な人を除けばストレスを生むだけです。ですから、富の生産効率を上げるにはできるだけそのストレスを軽減しなくてはならないわけです。
資本主義は富の生産装置。装置は使うものであって使われるものではない。この認識が「外部」への第一歩ということでしょうね。