「大雑把なモデル」の功と罪

年末年始はほとんどはてなは見てなかったのですが、この辺、なんか年末からよく燃えていたようで。すでに焼け跡ですけど。
中心テーマについては地道な論証を重ねておられる方々の文章を読めばよいとして、私はそれこそメタな視点から一筆。
ある問題や構造について考える時、まず頭の中で、あるいは紙の上で論理的に整合性のある「大雑把なモデル」を作ってみるのはとても有用です。
自分でとりあえずの納得を得たいだけなら多くの人はこれで済ませてしまうでしょうし、また「5次元における生命のあり方」とか「集合的無意識の高次構造」だとか、現実的な検証にまで全然たどり着かないレベルの問題であればモデルをひねくり回して遊べば結構結構です。
しかし現実の問題を論じる際には、これではポケットを失くしたドラえもんより不十分といわねばなりません。
ガリレオの地動説を激しく攻撃したといわれるアリストテレス学派は、単に権威を信じるだけの学問ではありませんでした。なにしろ議論と演繹を軸とし、三段論法を生み出した学派ですから、論理に関してはむしろ何よりも厳格だった。
ではガリレオら最初期の科学者と彼らの違いはなにか。
「観察と実験」
モデル上の整合性だけではなく、それが現実とどう対応しているのかを精緻に検証しようとする姿勢です。このちょっとした違いが、「科学」に現実を把握し改変する巨大な力を与えたのです。
内田樹センセあたりの得意技でもあるのですが、論理的に整合性のあるモデルを作るところまではそう難しくない。もちろん面白いモデルを作れること自体は素晴らしい才能といえます。
ただし、自然現象、あるいは社会や歴史といったハードな現実について本当に意味のある議論をしようとするのなら、モデルと現実を照らし合わせる地道な作業が不可欠なのです。
自分の中で大雑把なモデルを作ったなら、そのモデルと現実との「差分」を一つ一つ検証していく。地味でめんどくさい作業ではありますが、「科学」はそうやって発展してきたし、これからもそういう仕事こそが堅い岩盤に穴を穿つのだと思います。


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