「自由の国」を支える「奴隷」と「暴力」
ウェブは資本主義を超える(池田信夫)
自由の過剰な世界
やっぱこの世代の人はマルクス大好きなんですね〜。微笑ましいくらい。アンカテのessaさんも同世代でしょうか?
結論からいうと、「自由の国」は、それを支える「奴隷機構」と「暴力装置」を前提に成立します。
マルクスは自由の国を、労働が生活手段ではなく目的となるような世界とし、そこでは生産力は増大して無限の富が実現すると考えた。
まず、人間がデータ生命になってチップに半永久的に封入されるような場合を除き、炭素生物として生きる限り必ず「汚れ仕事」や「単調労働」といった「生活手段労働」が生じます。
当然、「自由人」はこんなことはやりたくない。
だとすれば、誰かに「やらせる」しかありません。
つまり、安定した「奴隷機構」が不可欠ということになります。もちろんこれが完全に機械化される可能性はゼロではないでしょう。が、それほど精巧なロボットを作るより、奴隷を「洗脳」したほうが早いし安上がりなのではないか?*1
では情報の過剰な時代のボトルネックは何だろうか。その一つは、ハーバート・サイモンの指摘したように、人々の時間(あるいは関心)だろう。
そういうことです。
情報が過剰になればなるほど、人々がそれらを吟味するコストは上がり、判断を印象に頼ることになる。脳がバッファオーバーフローを起こすわけですね。
そこにマインド・ハックの余地が生まれ、洗脳や扇動が容易になる。
これで「奴隷機構」はいっちょ上がり。「生活手段」としての労働を「目的」として内面化させてしまえばいいわけです。
そして、やはり重要度を増すのが「暴力装置」。
Googleが無敵のGoogleたりうるのは、情報の力だけではありません。世界最強の暴力装置である米国とタッグを組んでいるからこそです。
もし、東欧の小国辺りにGoogleが生まれていたら?
現在の姿はありえないでしょうし、結局は米国に吸収されることになるでしょう。
情報は、暴力と共にあって初めて力を発揮します*2。
「攻殻機動隊」において「公安9課」が恐れられるのは、単に情報戦のプロだからではありません。実力行使においても屈指の能力を持つからこそなのです。だからこそ、「人形使い」も「笑い男」も9課にやってきた。
社会の「情報」化が進むということは、その舞台裏において「奴隷機構」の整備と「暴力装置」の強化が進むということに他なりません*3。
そして、「歴史」は「二周目」に突入するのかも。いずれにせよ、興味深い時代ではありますな。