神のものは神に、科学のものは科学に

http://news.senahideaki.com/article/16043928.html
作家&東北大教授の瀬名氏が、北大の有名脳科学者澤口元教授の件について述べています。基本的には仰るとおりかと。科学自体は方法論(とそれによって得られた知識体系)に過ぎず、倫理、正義、善悪などの規範を規定するものではない。「科学的に正しい」ということは、方法(と知識)に合致する、というだけのことに過ぎません。まあ知識は常に更新されますが、方法論としての科学はほぼ定義であるが故に動かしがたいでしょうけどね。
ただちょっと事情が複雑なのが脳科学脳科学において「正しい」ということは、往々にして「規範」を含んでしまうのです。つまり、「脳はこのように考える・感じるものだ」と言った場合、「思考や感性」の「正しさ」を規定してしまう、もしくは規定しているように受け取られてしまうのです。
澤口氏はおそらくこの罠に自ら嵌まってしまったのでしょう。脳の「正しい」働きを知る自分の思考・感性は「正しい」と。この二つの「正しい」はまるで違う意味なのに。
そこで瀬名氏の言及された「脳を活かす研究会」。
http://www.cns.atr.jp/nou-ikasu/background.html

米国の高名な認知神経科学者であるガザニガはその著書「脳のなかの倫理」で、神経倫理学に関する2つの定義について次のように言及しています---『ニューヨークタイムズ』紙のコラムニスト、ウィリアム・サファイアが「神経倫理学(Neuroethics)」という新語を作り、「人間の脳を治療することや、脳を強化することの是非を論じる哲学の一分野」と定義した。...私は神経倫理学をこう定義したい:病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福に関わる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野である,と。---

最近の「脳文化人」の出現は後者のタイプの神経倫理学現代社会が強く求めていることを示しています。しかしながら、俗説をあたかも脳科学の裏付けがあるかのようにマスコミに流すことは、社会と脳科学に対する背信となります。翻って、この現象は、社会一般が脳科学の啓発活動を切実に求めていることの証左であるともいえます。脳と社会の研究は、心、意識、感情、情動の科学的基盤を明らかにし、それに基づいて、社会一般の人々が、自分自身、家族、友達、老化、教育、そして社会などに関する考え方をより豊かにすることを目指します。

「俗説」を脳科学で裏づけする、のみならず、脳科学こそが「俗説」を生み出しうる、ということについてもよく考えた方がいいでしょうね。
そして
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=91038&log=20060402

また、何らかの脳機能のわずかな障害がADHDの原因となっている可能性がある、といわれることがある。「障害」という言葉が「脳機能」にかかっていることが気になる。「脳機能の障害」が「子どもの障害」であり、「子どもの障害」は「社会(にとって)の障害」ということなのだろうか。さらに、ADHDなど子どもの発達障害の原因が「脳機能のわずかな障害」だとしたら、「不幸」の原因は「脳機能のわずかな障害」なのだろうか。

こういうことについてもきっちり思索・議論をしていく必要があります。クオリアなどと浮かれている場合ではありません。
神のものは神に、科学のものは科学に。
科学でないものを科学のように見せるべきでないのは、ニセ科学も倫理も同様です。
関連:
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20051113
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20051025
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20050108

参照:
http://ruke.blog5.fc2.com/blog-entry-381.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/game/gamenews/news/20060407org00m300121000c.html