馴れ合いの倫理学
http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-232.html
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20051204/1133730782
コミュニケーションの定義に関して議論が盛んで、非常に嬉しいですね。
僕としては、「コミュニケーション」とは互いの価値観を伝達、理解しあうことだと考えています。
まあ内田氏のおっしゃるのも広義にはコミュニケーションといえるかも。その名も「馴れ合い」。場合によっては「へつらい」ともいいますね。世に言う「人間力」「コミュニケーション能力」の大部分はこの「馴れ合い力」なのです。
ま、勿論このような能力が必要な場面は多々ありますし、自衛のためには身につけておくにこしたことはありません。
世の中、真の「コミュニケーション能力」=「お互いの価値観を伝え理解しあう能力」を欠いた「おじさん」が沢山いますからね。「自分は相手の価値観を理解しようとせず、自分の価値観にあわせることのみを要求し、それをコミュニケーションと呼ぶ」のが彼らの主な特徴です。
本当のコミュニケーションはお互いの「こだわりやプライド」を理解しあうことであって、一方のそれを抑圧することではないのです。勿論、理解した上で対立することもあるでしょう。しかし、理解しているからこそ止揚があり、そこに生産性が生まれるのです。
「こだわりやプライドを持たず、人の顔色を伺う」者達ばかり集まっていくら議論(?)しようとも、そこに「知」など生まれようもありません。
すなわち、「人間力」だの「わかる人にはわかる」だのと臆面もなくのたまう方々は、知価社会を目指す日本とは真逆の存在であると考えてもよいのではないでしょうか。
追記:「空気嫁」も同様です。「空気」とはすなわち、「立場的強者の感情」に他なりません。これを把握することは自己防衛には役立ちますが、盲従しても・させても集団の知的生産性にはなんら寄与しないのです。
関連:http://d.hatena.ne.jp/sivad/20060415#p2