レトリックの効用

ここ数回、araikenさんのところhttp://araiken.exblog.jp/で重厚な内田先生批判が展開されています。地に足のついた、実に真心溢れる批判で、内田氏を始めとするネオリベラル派の方々もその思想を深める一助になるかと思います。
これらの文章を巡って、ちょっとした論争のようなものも起こっているようです。その中でも秀さんhttp://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/24635328.htmlの論考は特に興味深く感じました。
秀さんは論理学を修められたということで、内田氏の文章を論理的に吟味して肯定するエントリをいくつか書いておられます。
しかし、内田氏の文章は、実は見た目ほど論理的ではありません。論理学を修めた方でも誤魔化せるほどに、高度な「論理的風」レトリックが用いられているのです。
しばしば理系人間でも騙されてしまうこのテクニックを、「空文の効用」http://blog.tatsuru.com/archives/000986.phpというエントリを使って簡単に説明致しましょう。
冒頭。

世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない。
だから、平和憲法は空文である。
ここまでは推論として間違っていない。
しかし、「だから、平和憲法を戦争ができるように改訂すべきである」というのは推論として間違っている。
それは「空文」の「程度」(つまり、「どの程度無効なのか」)についての吟味の努力がここには欠落しているからである。

一見論理的に見えるこの文章。実は、大きな論理的接続を欠いています。つまり、A→Bに見えるけれど、本当はA→(B)→Cとなっていて、Bは巧妙に隠されているのです。
さあ、「B」がお分かりでしょうか。
答えは、「平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである」という命題です。
すなわち、本来は「世界中に平和憲法がある→平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである→世界からは戦争がなくならない→よって憲法は空文」となるはずのものが、途中をすっ飛ばされているわけです。
平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである」は自明だろうという方ももしかしたらいるかもしれませんが、「平和憲法」とは基本的に「自国の戦争の放棄」を謳ったものであって、これは論理的には「世界から戦争をなくす効果を果たすもの」とはなり得ません。この辺りは当該エントリへのbewaadさんのTBhttp://bewaad.com/20050517.html#p03がよく説明してくれていると思います。
従って、この文章は本来Bの時点で論理的に破綻しており、その後の議論は無効になるわけです。しかし、レトリックによってそれを気づかせないのは、流石というべきでしょう。
この文章にはこのようなレトリック、というよりトリックがまだいくつかありますし、そもそもご自分で

それについて十分に論拠のある推測が示されない限り、私は「憲法と現実の乖離による損失」や「国際社会で笑い者になった」というようなことをあたかも既決事実であるかのように語る人間の言うことをまじめに聞く気にはならない。

と書かれているように、

不思議なのは、このような網羅的な憲法研究の結論が、「だから日本国憲法第九条は空文だ」というものに落ち着くことである。

しかし、そのあと日本国憲法はその「空文」を宣告された不戦条約の条項を再び掲げることによってとりあえず戦後60年間戦争をしないできた。

というようなことをあたかも既決事実であるかのように語る人間の言うことをまじめに聞く気にはならない、ともいえるわけです。