専門馬鹿論2

さてさて。
前回は

すなわち問題を解決するには、何故「理系は専門馬鹿が多い」と世間に受け取られるのか、をまず検証しなければならないのです。

と書きました。今回はこの点について考えてみます。
そも、「専門馬鹿」とは何か?
「理系」の皆さんは、恐らく「専門以外の知識がないこと」だと考えてらっしゃると思います。確かにそれも一つです。三権分立の意味も知らないようでは、民主国家の国民としてアレですからね。
ただ、恐らくはもっと根源的な理由があるように思えます。知識は結構あるのに「専門馬鹿」扱いされてるように感じたことはありませんか? 何故でしょう?
そう扱っているほうもはっきり意識しているわけではないと思いますが、原因は「手段と目的の混乱」にあると思うのです。
一昨日のコメント欄にも少し書いたのですが、研究者や技術者の議論というのは、(僕も含めて)とかく「分析に始まり、分析に終わり」ます。それは勿論、「分析」を目的とする職業についているからです。が、しかし、「分析」は飽くまでも手段です。社会にとっては、科学も研究も技術も「手段」に過ぎません。つまり、研究者や技術者は普段から「手段を目的としている」人々ということになります。そして、この特性は様々な場面に現れます。
すなわち、分析的だが真の「目的達成」「結果」にたどり着かない、という「思考特性」こそが「専門馬鹿」と感じられるのです。
ここまで読んで分かるとおり、これは別に理系に限ったことではありません。法律の「専門馬鹿」だっているでしょうし、芸術だってそうでしょう。
ただ、研究者や技術者は圧倒的に理系が多いこと、文系は「人間」を扱うために、やや社会の「目的」に近い場所にいること、などが理系の「専門馬鹿」を目立たせる原因なのではないかと思います。
理系の恋愛もしかり。
手段が目的化していないか?よーく考える必要がありそうですorz