アートと認知/遺伝子について

http://cruel.org/diatxt/diatxt5.html

ぼくはアートでなにやら社会問題を表現する、という話には非常に懐疑的だ。でも、アートや芸術作品の魅力の一つが、それが何か自分の状態――それは社会との関係も含む――をうまく表現してくれることにある、というのは否定できない。それは必ずしも特定の社会問題とは直結していない。ただ、ある社会環境の中におかれた自分の状態とは結びついている。ムンク『叫び』に人気があるのは(これを等号で結んでいいかどうかは議論のわかれるところだけれど、この場合その人気は同時にそれが持つ芸術的価値とも同じものだ)、それが何か特定の社会問題と結びついているからじゃない。

うーん、今ひとつ浅いかな。
確かに、現代のコンセプチュアル・アートは生理的な強度というよりは意味的な強度を重視していて、それを味わうためには「文脈」を認識している必要があります。つまり、それなりの「教養」が必要になってきます。
ですから、いつかリリカ氏、id:sujaku氏らと議論したように、例えば村上隆の作品は西洋の文脈の中では強度を持ちえますが、日本では持ちえません。それはそれでいいのです。芸術に関しては、別に西洋の尺度が普遍性を持つわけではありませんし、またそれを否定する必要もありません。
ただ、何故コンセプチュアル・アートが隆盛したのかについてはもう少し考えたほうがいいのではないでしょうか。
クラシックの世界を覗くとよく分かると思いますが、それはある技法内での「人間の生得的な認知や知覚に沿った」強度が飽和してきたからです。最も効率的に生理的快感を生み出す方法は数に限りがあるということです。そして人間には慣れ、飽きがあり、「差異」を生むのはどんどん困難になっていきます。
ですから、古ぼけた認知的知見に基づいたアートを出してきても、つまらないのは当然。
それを打開した(ように見えた)のが、「意味」です。芸術家は、「意味」によって生理的強度を生み出せることに気がついたというわけです。実際には「文学」というのがその最たるものとしてもともとあったわけで、真の発見ではないのですが。

先日のエントリーで、文化が遺伝子発現を左右するhttp://d.hatena.ne.jp/sivad/20050315、というものがありましたが、人間は「意味」によっても「快楽」の遺伝子発現状態を生み出せるのです。
ですから、脳科学認知科学が快感回路を探すのは面白いとは思いますが、それが「意味」によるものなのか、生得的なものなのか、の区別は非常に難しいものになるでしょうし、研究者の「センス」によって解釈が全く異なる事態になりそうです。
で、それからしばらくは「意味」を消費しまくる時代が続きました。単純な生理的快感パターンに、様々な「意味」を乗せて差異を生み出す。それがハリウッドであり、ポップスであり、現代アートであったわけです。
そして今、「意味」さえも消費しつくしたからこそ、それは行き詰まりを迎えつつあるのです。
じゃあこれからはどうすればいいのか?
今現在は、使い古した意味と生理的強度を順列組み合わせ(これもポストモダン?)的に使って、なんとか循環させようとしている状態だと思います。
僕が考えるのは、次は受ける側が変化する必要がある、ということですね。これはまた次の機会に。
参照:
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060505/1146831091
http://d.hatena.ne.jp/kasuho/20060502/p1