最上のB級グルメ的マンガ

ゾンビ屋れい子ゾンビ屋れい子 1 (ぶんか社コミックス ホラーMシリーズ 103)。知人に教わってはいたのですが、単行本はなかなか見当たらず、ふとみると文庫になってたので読んでみました。
いや、楽しいです。いわゆるジョジョフォロワーの中では出色の出来ではないでしょうか。主に一〜三部辺りの「ジョジョ読みの快楽」をバリバリ発散しつつ、作者本人の快楽的ツボもじわじわ効いてきます。特にロメロやアルジェントなどのB級ホラーを楽しめる人にはうってつけでしょう。泣きのツボも押さえていてベネ。飽くまでエログロですが、むしろ潔い。

きちんと考える、というのならきちんと考えて欲しい

だけなんですよ。単に。
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060320
kawakitaさんからまた考察を頂いたわけですが、僕にはやっぱりまだ物足りないかなぁ。。まあこんなもん、としてもいいんですが。。
例えば

内田氏関連のエントリー*5での「労働は常にオーバーアチーブメント」というのは暗黙の前提がありました。それは利潤率が正(利潤が出ていること)です。

とありますが、前回も書いたように、まず個人の贈与・労働の話をしているのに何故企業の話になっているのか、という説明がありません。
また、

でも普通「労働」っていうときは利潤率が正であることを想定すると思うのですが、別の可能性を考えずそう想定してしまったのは僕の怠慢です(かねぇ・・・なんて言ったらまた怒られそうですがw)。労働「一般」には当てはまらないかもしれませんが、まあ基本的には成り立つということはご理解いただけるのではないかと思う次第。

一番単純な「イコールアチーブメント」でも企業は存続可能な点を考慮されていませんし、おそらくマルクスの話を受けているのでしょうが、あれは高度成長経済を想定しているわけでして。現在は成長どころか、経済の縮小が危ぶまれている時代です。維持の時代なのです。内田さんも別に20世紀初頭について語っているわけではないでしょう。

さらに、id:khideakiさんと類似の思考形態をお持ちのigelさんのコメントですが、まず学問的に言うならば、

「労働しない人間は存在しない」と前提したにもかかわらず、「働かない人間がいる」という状態があるとき、「その状態の人間も実は働いているのだ」、という結論を導き出すのも論理的な議論ではないでしょうか?
もちろんその場合の「労働」という概念の定義は、常識的な意味での労働、つまり「現に働かない人間がいるではないか」という状態を指して言うときの「労働」とは異なるでしょうが。

  • 「労働しない人間は存在しない」と仮定したにもかかわらず、「働かない人間がいる」

という状態があったならば、

  • 「労働しない人間は存在しない」という仮説が誤りであった

と考えるのが正当です。仮説の真偽を確かめるためにデータに当たるのですから。明らかに辻褄の合わない「労働しない人間は存在しない」を棄却しないのは、仮説を変えてはいけないという誤った強迫観念か、検討すべき仮説を初めから真だとしてしまっている、明らかな誤謬です。

しかし前提をそう規定した以上は、この状態はあくまでも「労働」として再帰的に捉え直さなければならない、というのが「本質規定」だと思います。
それに対し、現に状態がこうなのだからその前提は間違いである、そんな前提は置くべきでない、というのが常識的な結論に引きずられた「規範規定」なのではないかと。

そして上のように、igelさんは

  • 「労働しない人間は存在しない」が「本質規定であるか・規範規定であるか」

を検討しようとする際に、既に命題は「本質規定である」と先取りして決定しているのみならず、「規範規定は良くない」というイメージを逆手にとって、学問的ルールを否定しようとしていまするように思えます。

しかしたとえ常識的にはとても労働と呼べない代物だとしても、そう定義=本質規定することで論理の辻褄が合うのなら、そのような主張を排除する理由はないでしょう。

理由はあります。こうなってしまえば、コンスタティブどころか、もう学問・科学的とは呼べません。疑似科学*1、ゴリゴリのパフォーマティブな言説です。

再帰性」(による問い直し)が「規範」(による排除)ではなく、「発見」や「理解」(や「包摂」)を生み出す可能性も中にはある

これは典型的なパフォーマティブ分析ですよね。こういった可能性のうち、僕やaraiさんやkingさんは、弊害の大きさを指摘してきたわけです。

つまりkawakitaさんは一周して、「内田氏の言説もいい影響を及ぼす可能性があるかもよ」というパフォーマティブ分析にたどり着いた、ということなのです。

で、それに対して、僕は「その可能性もあるが、やはり規範的影響による弊害の方が大きいと考える」というわけです。内田氏の言説に論理だ学問だということの不毛さがお分かりになったことと思います。

学問的な「問い直し」は大事だと思いますが、それは飽くまで「ルール」に則って行われるべきです。ご都合主義で定義を捻じ曲げることを許すのなら、それは科学や学問においてさえ「声の大きいものが勝つ」世界を招くことになるでしょう。

やれやれですね

こちらから敢えて触れる気はないのですが、id:khideakiさんがご丁寧にTBをくださっているのでコメントしておきましょう。こういうの誘い受けっていうんですかね?違う?
http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20060320
結論としては、明後日に向かって撃っている、という感じですか。

これは、ある主張が「科学」的真理であるかどうかは、それを反証するような可能性のある事柄を見つけ出して、反証するような実験を行って、その結果を見ることによって判断するのだと主張しているのだ。

全然ちゃいますよ。『ある仮説が与えられた場合その「反証可能性」を検討し、その命題を反証できるような実験や調査を行い』と書いてあるじゃありませんか。勝手にまるで意味の違う「反証するような可能性のある事柄を見つけ出して」「反証するような実験を行って」に改変しないで頂きたい。折角「 」もつけてキーワードにもリンクしてあるのですから。またぞろ「都合のいい解釈」の悪癖が出ているようですね。まあいいのですが、従って、この箇所以下、ご批判は全て無意味です*1
補足:http://d.hatena.ne.jp/sivad/20060408#p1

*1:もちろん科学は反証可能性のみからなるものではありませんが、今回のはそういった議論以前の問題ですね。

その上で

例えば「労働はオーバーアチーブメントである」という仮説を科学的な視点から見ますと、事前に特殊な定義宣言もありませんし、「労働」や「オーバーアチーブメント」が一般的な語義であるならばこれは「反証可能性」のある科学的仮説といえるでしょう。調査可能です。限定条件も特にありませんから、文脈的にもこれは

  • 個人におけるいわゆる「労働」は全てまたは一般的に「オーバーアチーブメント・受け取るより過剰に与えている状態」になっている

という仮説だということになります。
で、詳細な調査をするまでもなく、反証例は沢山存在することが明らかなわけです。もし反証例が極々限定的な場合でしたら、ちょっとした注釈・条件を付け加えれば許されるかもしれませんが、今回はそういうレベルではないでしょう。
事実を記述しようとした仮説としては、棄却されるべきものです。定義を変えてでも仮説の形を残したいというのなら、「変えた定義」を使った場合の「反証可能性」についてもう一度検討すべきですし、調査方法も変わるでしょう。そもそも大幅な定義変更をするなら別の言葉・概念を使うべきなのに、それをしない理由も問われるでしょう。
もし内田氏の言説を「コンスタティブ」に分析するとすれば、こういう手順を踏むべきなのです。
id:khideakiさんも上のエントリでこうおっしゃっています。

解釈によって常に変わりうる概念でしかないからだ。科学はそういうものは対象にしない*1