理科大好きでも科学者イヤ??

http://www.asahi.com/science/news/OSK200512100013.html

その結果、理科については「面白くて他の教科より好き」が33%、「面白いがもっと好きな教科がある」が32%、「面白くなく嫌い」が33%と三分された。
このうち、「面白くて他の教科より好き」と答えたグループに職業を選ぶ観点を尋ねると、「能力や才能を発揮できる仕事をしたい」が92%、「重要で意味があると考える仕事をしたい」が87%。さらに「科学は社会にとって重要」との回答も87%にのぼった。
ところが、「科学者になりたい」との回答はわずか34%(男子44%、女子19%)。男子の56%、女子の81%は「なりたくない」と答え、前者の回答との食い違いが目立った。

つまり全体の11%程度が「科学者になりたい」わけですよね。
科学者の人口比を考えると、十二分以上じゃないですか。しかも全般に理科や科学を軽視しているわけでもない。
無理やり「問題」を作るのいい加減止めて欲しいですなぁ。。

ちなみに。。
http://www-ed.fnal.gov/projects/scientists/david.html
当たっているだけにorz

哲学者のエートスの死滅

http://blog.tatsuru.com/archives/001419.php
を分かりやすく示してくれる文章です。
ロジックもエヴィデンスも薄弱な上、対策や向うべきビジョンを捻り出す思考の強靭さもない。
煽って投げ出して売れれば万歳。
日本社会の「エートス」の根幹を担う「哲学者」がこの体たらくでは、どうしようもないですな。
何しろエートスとは、基本的には環境が生み出す行動様式です*1。良心とはあまり関係ありません。例えば、しっかりした基礎がなくても見栄えが良ければ是とされる環境に置かれれば、そういう「エートス」が生まれるのです。
そして、そういう「環境」の礎となるのが教育であり、哲学なんですがね。
ここにもう一つ、あまりにも分かりやすい例があります。
http://blog.tatsuru.com/archives/001425.php

採点基準を明らかにすると、私が重視するのは、「コミュニケーション感度」である。
こちらのモード変換にどれくらいすばやく反応するか、その反応速度でだいたい点数が決まる。
私の出す質問や脱線する無駄話の内容だけでなく、こちらの話し声のピッチやトーンや姿勢やテンションの変化といったシグナルを「どう読んだか」ということを見るのである。
コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。

こういう教育をしていれば、当然それに応じたエートスが生まれるわけです。 「こだわりやプライドを持たず、人の顔色を伺う」行動様式ですな。内田センセにとってはそれが「コミュニケーション」だそうですが。。
センセのお好きな「職人エートス」をぶち壊しているのは他ならぬセンセイご自身なのですよ。

馴れ合いの倫理学

http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-232.html
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20051204/1133730782
コミュニケーションの定義に関して議論が盛んで、非常に嬉しいですね。
僕としては、「コミュニケーション」とは互いの価値観を伝達、理解しあうことだと考えています。
まあ内田氏のおっしゃるのも広義にはコミュニケーションといえるかも。その名も「馴れ合い」。場合によっては「へつらい」ともいいますね。世に言う「人間力」「コミュニケーション能力」の大部分はこの「馴れ合い力」なのです。
ま、勿論このような能力が必要な場面は多々ありますし、自衛のためには身につけておくにこしたことはありません。
世の中、真の「コミュニケーション能力」=「お互いの価値観を伝え理解しあう能力」を欠いた「おじさん」が沢山いますからね。「自分は相手の価値観を理解しようとせず、自分の価値観にあわせることのみを要求し、それをコミュニケーションと呼ぶ」のが彼らの主な特徴です。
本当のコミュニケーションはお互いの「こだわりやプライド」を理解しあうことであって、一方のそれを抑圧することではないのです。勿論、理解した上で対立することもあるでしょう。しかし、理解しているからこそ止揚があり、そこに生産性が生まれるのです。
「こだわりやプライドを持たず、人の顔色を伺う」者達ばかり集まっていくら議論(?)しようとも、そこに「知」など生まれようもありません。
すなわち、「人間力」だの「わかる人にはわかる」だのと臆面もなくのたまう方々は、知価社会を目指す日本とは真逆の存在であると考えてもよいのではないでしょうか。
追記空気嫁」も同様です。「空気」とはすなわち、「立場的強者の感情」に他なりません。これを把握することは自己防衛には役立ちますが、盲従しても・させても集団の知的生産性にはなんら寄与しないのです。
関連:http://d.hatena.ne.jp/sivad/20060415#p2