具象は抽象、抽象は具象?

ちょっと前の科学論のところで「抽象とは何か」についてなんとなく考えていて、ちょっとゲイジュツ方面についてまでヨタが回ってきたので書いてみます。
こないだ科学は現実世界を抽象化した「地図」である、といったように、「抽象化」というのは大体、ごちゃごちゃした「ナマ」の何かから要素を抽出して単純化したりモデル化したり、という作業なわけですよね。
でまあ、世間的な用例として「抽象的な絵」だとか「抽象的な表現」とかよく言いますね。
例えば上に掲げたカンディンスキーとか、典型的な「抽象画」です。
でも待てよ。
じゃあこの絵は何を「抽象」しているのか?
そもそも何かを「抽象」していることがこの絵にとって重要なことなのか?
とか思ってしまったわけです。
私の感覚では、この絵を味わうにあたってそれが何の「抽象」であるかはそれほど重要ではありません。それよりも大事なのは、色であり、配置であり、質感であり、筆致ではないか。
とすれば、それはまさに「ナマ」の絵そのものを味わっているということであり、むしろ極めて「具象」なのではないか。
逆に、風景画や静物画など、現実の「何か」を投射して描こうとする作品こそ、「抽象」なのではないか?*1
まあこういうことを考えるのも、私がシュミで「即興演奏」をやるからかもしれません*2。クラシックやジャズなど特定の文脈に依存せず、言葉を用いない「即興演奏」においては、それが何を「表現」しているか、ということはほとんど問われません。別に表現してはいけないわけではありませんが、やっぱり「音」そのもの。そのナマの強度が評価される場合が圧倒的に多いです。
アルトサックス奏者の阿部薫*3は【『音』が一番『速い』】とか何とか言ったそうですが、それは多分、強烈なインプロヴィゼーションは「意味」や「抽象」を介することなく、最もナマナマしい「具象」として人に届く、ということなのでしょう。
その意味では「歌」は極めて「抽象的」な方法です。逆説的ですが、実は「ポップス」というのは最も「抽象的」な音楽と言えるかもしれません。
まあ私は世界を抽象化する「科学」をメシの種にしてはおりますが、「具象」としてのナマナマしい世界の感覚も忘れないようにしたいと思ってます。
なんせ、われわれは全くもって「ナマ」の存在でありますからね。

関連:アートと認知/遺伝子について

*1:コンセプチュアル・アートはこの意味で最も正しく「抽象的」だといえる?

*2:僭越ながら、ワタクシの演奏

*3:http://www.youtube.com/watch?v=IqvwBos9HQk