奴隷制資本主義

内田氏に限らず、現在の日本のエスタブリシュメントの多くが目指しているのは、一種「奴隷制資本主義」とでも呼ぶべき資本主義の一形態であろうと思われます。
その正体は、「資本」や「文化資本」によって地位を堅持するごく少数の「支配階級」と、その下で「支配階級」への上昇チャンスをちらつかされながら知的能力を吸い上げられる少数の「市民階級」、そしてチャンスすら「断念」させられ、単に労働を「贈与」することにのみ喜びを感じるように教育された多数の「奴隷階級」からなる階層社会です。
実にくそったれな社会ですが、少なくとも上の階級にとってはオイシイ話で、「資本」や「文化資本」に自信のある者が推進したがるのも無理はありません。
まあ彼らの理想はヨーロッパ(もしくはアメリカ)で、向こうはそれで「うまくいっている」、と思い込んでいるようですが。
僕としては例え「うまくいっている」としてもそんなのは御免ですし、そういったシステムが日本で「うまくいく」こともまずないだろうとも思っています*1 *2 *3
まーなんか内田氏やらポスドクやら、いろんなところに絡んでくる話ですな。
荒井氏への批判に、資本主義の外部などない、というものがありますが、それは荒井氏も批判している「馬鹿左翼」の話であって、氏自身はそういうことはおっしゃっていません。
まず、資本主義といってもその形態は決して一つではなく、「奴隷制資本主義」しか存在しないわけではないこと。そして、今現在は確かに「資本主義の外部」は存在しないかもしれないが、それは「資本主義の外部の可能性」が存在しない、ということではない、ということ。
そして恐らく荒井氏の理想は、資本主義の内部に「外部」を創っていこう、ということではないかと僕は思いますし、それは正しい方向だと思います。