就職と大学

http://d.hatena.ne.jp/bluede/20050621でのコメントを(長いですが)一部引用させていただきます。

『で、今回はコミュニケーション弱者が特に危険な立場に置かれていることが特に問題であることを例に挙げさせていただきました。対人関係に関わる部分は当事者の生き方に大きく左右されるところがあり、どうしても身につけるのに時間がかかります。さらには、いじめや虐待、差別によりそれを身につける機会が奪われた人にとってはあまりにも残酷だからです。社会に出て対人関係に苦しみ、自らの人格を、自らの存在を否定され、かつてと同じような悪夢が永遠に繰り返されることを想像しても全く不思議ではないですし、弱者にとってはそういった社会という存在はとてつもない恐怖でしょう。このことは就職して社会に出ること、もしくは就職しても生きることに希望が持てない彼らの大きな理由の一つではないでしょうか…。
あと、PJの記事を読んで思ったのが、大学の「就職力」にそこまで拘るべきかどうかということです。今回の記事は特に「就職力」という点で大学に過大な期待を寄せている感があったんですね。「就職」という枠にはめ込もうと教育すると学生が既存の日本社会のルール・価値観に埋没し、現状追認者を大量生産する危険性があると思います。
最後に、「コミュニケーション能力の欠如を社会的にどう解決するか」ということに関してですが、コミュニケーション能力そのものが最近は意識されすぎではないかと思うのです(特に対人関係に関して)。欠如そのものは確かに問題ですが、あくまで仕事に必要な最低限のもので、あとは個人差にすぎないのではないかと思うのです。』
『就職力というのは、少なくとも社会の知を担おうと自負する大学であれば、一種の「技術」として捉えるべきでしょうね。それを学問としてイデオロギッシュに肯定する必要はなくて、むしろ批判的な分析が加えられてしかるべきものだと思います。その上で習得を目指す、というのが学問者として健全な姿勢じゃないかと。
やっぱり「技術」は所詮「技術」で、人格や人間性とは別の問題だという認識が重要に思えます。』

内田樹さんの「資本主義の黄昏」http://blog.tatsuru.com/archives/000995.phpにも関連する内容です。日本の大学はもともと職業訓練校として生まれていますしhttp://d.hatena.ne.jp/sivad/20050126#p1、卒業生をきちんと就職させる役割や責任を当然期待されています。ですから「技術」としての就職作法を学ぶことは非常に重要な課題となってくるでしょう。ただし、それを内田さんのように哲学の言葉を利用してイデオロギッシュな価値観として刷り込むことまでが必要か、というのにはかなり疑問を覚えます。
これはご本人もクビ大問題を語る折http://blog.tatsuru.com/archives/000688.phpに、短期実用的な「教育理念」を批判されているわけですが、結局「転向」されたということでしょうか。
したたかに生き延びる手段は模索しながらも、やはり「学問」を名乗るならば社会を批判的に捉える方法を教えるべきで、ましてや上から降りてきたイデオロギー理論武装に汲々とするのはおよそ学問的な態度とは思えません。
今流行の、「産学連携」もしかり。知り合いの話を聞いていると、今のやり方ではなんだか大学が一部の企業に都合のよい資源として使われているだけ、のような気がしています。