内田樹の巧みなレトリック

内田樹氏の言葉に妙にひっかかりを感じてしまいます。割と似た方向を向きながら、肝心な部分で僕の感覚とズレるので、違和感が大きいのでしょうね。
話題の「希望格差社会」を論じた3月21日http://blog.tatsuru.com/archives/000856.php。相変わらず明晰な語り口で大筋を紹介してくれます。素晴らしい。(内容は絶望的ですが。)
で、持ちネタ「文化資本」へと持ってくるあたり、さすがにスマート&クレバー。

言い換えれば、男性強者の専業主婦たりうる条件は「文化資本を備えた強者の家庭のご令嬢」であるというかたちで、あらかじめ限定されているのである。

つまり、勤務先におわすご令嬢方ということですね。実に巧妙な営業です。
ま、それはそれとして、この「文化資本」。まず気になるのはコレ。将来重要なファクターになるであろうことは同意するのですが、その正体が問題です。
ここでいう「文化資本」とは、

ということになりますが、これらは正味、「強者へのコネ」そして「強者の好む価値(観)」ということです。
個人的にこんなものを「文化」と呼びたくはないわけですが、実質的にもこれらは「文化資本」と呼ぶには値しないものだと思います。最大の理由は、恐らくこれらはグローバルな「強度」を持ち得ないだろうということです。
「文化」の価値は完全に相対的なもので、強者が決めたものが全てである、という考え方もありますが、僕はやはり個々の文化に備わった普遍的な「強度」というものがあると考えます。その観点から、今の、そしてこれからの日本の「強者」の好む文化にグローバルな「強度」があるかというと、全くそうは思えません。
すなわち、この「文化資本」とやらは、日本国内でのみ通用する「文化不良債権」になる可能性が高いと考えられます。もちろん一時的に経済をまわすかもしれませんが、富自体はジリ貧です。外部への競争力は持ってませんから。
そして次に気になるのは、内田氏の他人事口調。ま、くだらん細部ですが。

「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。

…ということをみなさんがおっしゃったので、「こういうこと」になったわけである。

「みんなって誰」論争ってのも昔ありましたが。。飽くまで自分は外部にいる、ということらしいです。どーも眉唾してしまうのは、氏のこういうスタンスに違和感を感じるからなんでしょうね〜。

どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。

例えば、このような機能は大学を始め、教育機関の役割です。
あるいは以前の首都大学東京の話でも、大学教育不信の咎は一足飛びに「大人」に向けられていて、「大学」には向けられていません。
こういった肝心な部分でのミスリードは内田氏の高度なレトリックを学ぶのには最適ですが、氏の影響力を考えると、ちょっと困りモノですね。
で、最後の「哲学」。
うーん、もう少し具体的に語って欲しかったですねぇ。。フェミニズムとかもからめて。
追記:http://d.hatena.ne.jp/sivad/20050325