宮台センセんとこで

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=67多様性と流動性どっちにするんや?てなお話が。厄介ですな。ていうか「流動性」の定義がイマイチわかりにくいですね。資本や文化の画一性、侵食性ってことでしょうか。でも一方で、人間自体の流動性はまだまだ高めるべきだと思いますね。特に日本では。人間を固定して資本や文化を広めようとするからこそ多様性への無理解が生じるのです。人間の流動性はむしろ全体の多様性を高めると考えます。特に「上」の階層及び階層間の流動性をもっと高めるべし。
「魂」かぁ。僕が好きな「直観」や「身体性」とも近いのかな。ちなみに身体性ってのは別に快楽マシンになれってことではなくて、どっちかというと「概念性」に対する言葉です。概念で捉えられる以前の、あるいはそれ以上における感覚を大事にするというか。(=直観?)
しかし多様性の重要さって、「魂」を持ち出さないといけないほど説得力失ってるんですかね。リスク分散の意味でも多様性の価値って主張できないんでしょうか。吉野家の例もあるし。・・まあ少し安直ですが。
センセの議論とは少し違いますが、僕も「身体性」や「直観」の回復は多様性の確保に繋がると考えていて、それは結局、全ての人間や生物、風土、自然ちうのは単純に、物理・化学・生物学的に「違う」からです。そもそも「同じもの」というのは概念の産物に過ぎません。違うものを同じものとして扱えばどこかで必ず無理が出てきます。「身体性」や「直観」を磨くことでその「違い」に敏感になれば、多様性を認めざるを得なくなる。・・と思うんですがね。