生物学とジェンダー論の対話作法

休止前ですが、なんだか例の「バックラッシュ!」発売の余波か、いろんなところでジェンダー関連の議論が巻き起こってますね。せっかくなので少々コメントしておきます。
まずはこちら。
生物学とジェンダー学の対話
International Stem Cell Forum
東北大学生命科学者、大隅教授のブログです。
コメント欄も含めてですが、正直言ってあまり生産的な議論になっていないように思えます。

まず最初に、

生物学者がジェンダー学者と何故対話できないのか

これはよくないと思います。「生物学者が」ではなく、「私が」にすべきです。少なくともコメント欄におられる方はジェンダー論に理解を示しているようですし、私も対話できると思っております。

コメント欄も含め一番物議を醸しているのは、生物学における"abnormal"という概念、言い方のようですね。
例えばこれをそのまま人間の性的指向の「アブノーマル」に当てはめるのは、やはりおかしいと思います。
生物学における"abnormal"とは、「野生型」"wild type"に対する便宜的な表現です。そして生物学における" wild type”とは、別に「自然界であるべき姿」というわけではなく、研究の上で便宜的に基準として定めた系統、というだけのことです。なにしろ世界中の研究者が別々の系統・基準を用いていたらお互いに検証しあうことができませんからね(追記あり)。
これに対して、人間社会における「アブノーマル」とは倫理的基準によるもので、生物学の基準とはまるで異なります。
こういうことを生物学者はきちんと説明すべきですし、人文学者もこういう専門領域での言葉使いの違いについてはもう少し配慮すべきでしょう。
また、確かに医学や生物学で生存や生殖を害する形質を「異常」と呼ぶことはありますが、ここには「生物の目的は生存や生殖である」という「仮定」または「主観」が入っているのです。「生物の目的は生存や生殖である」ということは「科学的に証明」されたことはありません。現代進化論をちょっと知っていれば分かることです。
「異常」というからには「正常」がある。その「正常」の基準はどうやって定められたのか、という点には常に気をつけるべきでしょうね。
そもそも科学的方法論の正しさは経験的なものであり、一種の「文化」です*1。「科学が絶対の真理である」というのは一種の「信念」であり、「厳密に証明された」ことではありません。科学とは何か、ということを教えない・考えないというのは日本の理科・科学教育の大きな問題点ではないかと思います*2 *3

ちなみに、生物学者とジェンダー論者がよく紛糾する話題として、「ジェンダーがセックスを規定する」という論があります。
まあちょっと聞くとトンデモ臭いのですが、よく考えれば分からない話でもありません。「ジェンダー」の意味が拡大されているのです。
ここでいう「ジェンダー」とは、「性という概念」のことなのでしょう。確かに、いろいろな生物に「性別」をつけたり「オス」「メス」に分けたがるのは、人間が「男」「女」という性の概念を持っているからこそです。
ただし、この場合の「ジェンダー」は社会政策の文脈に出てくる「文化的性別イメージ・役割」のそれとはかなり違います。ですからそういう用語の定義をはっきりさせずに議論を進める論者にも大いに問題があるといえます。
まあ、科学者だって「政治的」利用のために定義をはっきりさせない言葉を使ったりしますが*4ジェンダー論者の方も生産的な議論をしたいならその辺は気をつけたほうがよいでしょう。

関連:
科学は道徳やしつけのための「地図」である
追記
「野生型」"wild type"についてもう少しいうと、これに用いられる系統はできるだけ遺伝的多様性が少ない「純血種」であることが望まれます。基準として使うのですから、ブレが少ない方がいいわけです。しかし一方、実際の生物界では遺伝的多様性は多いほど環境適応力があるとされます。つまり、実際の生物界を基準とするならば分子生物学・分子遺伝学などで用いる「野生型」"wild type"はそもそも「異常」だということすらできるのです。
もちろん科学は抽象化・単純化してこそ威力を発揮しますので、このことから生物学が無意味だというわけではありません。しかし、そこには必ず「主観的」な基準が紛れ込んでいる、ということをもっと意識すべきです。
科学とは「客観性を高めるための方法論」であって、「絶対の客観性」を保証するものではないのです。「客観性」は重要ですが、それがどういう基準に基づく「客観性」であるかはチェックされねばなりません。

*1:ただし、今のところ世界を捉えるには最も信頼性の高い方法ですが。

*2:科学は信頼すべき方法であって、信仰すべき対象ではない。

*3:個人的には、科学とは「地図」のようなものではないかと思ってます。世界の大まかな姿や歩き方を教えてくれますが、決して世界そのものではない。

*4:クオリアだの、システムバイオロジーだの、Web2.0だの。

フェミニズム:性差別禁止=黒人奴隷解放運動:人種差別禁止

順番が違う
本当に抑圧されているのは誰か
確かにフェミニズムはまず「女性の解放」から始まっています。それは人種差別禁止の運動が黒人奴隷の解放運動から始まったのと同様で、まずはラディカルな同質集団が動かなければこういった「運動」は始まらないからです。
しかし、ただマイノリティが動くだけでは「運動」は成功しません。弱者が強者にガチンコ力勝負を仕掛ければ、敗北は必至です*1
そこにはマジョリティすら取り込む、または解体するような「大義」が必要なのです。
黒人差別問題の場合は、「民主主義」という「大義」があり、白人すら取り込むことができました。また「人種差別の禁止」を掲げることで黒人だけでなく、様々な人種の意識を向けさせることもできました。
日本の「フェミニズム*2は、ここしばらくどうやら「経済」という「大義」を味方につけていたように見えます。「女性」を「労働力」とすることで、社会進出を実現させました。
しかしおそらくその「大義」では行き詰まります。折角「ジェンダーフリー」という概念を持ち出してきたのですから、「性差別の禁止」という「大義」を掲げ、男性弱者*3や多くの性的被抑圧者を味方につけていくべきではないでしょうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/bluede/20060714/1152832227

*2:少なくとも政治にコミットした一派は。

*3:いわゆる「弱者」でなくても、男性ジェンダーにしんどさを感じている者は結構いるんじゃないかな。僕もウザいと感じることしばしば。

男性向け「アファーマティブアクション」はどうか

高学歴女性が低学歴男性と結婚をしたがらない理由
例えば、上記リンク先に書かれているように女性の「専業主婦」という権利が「職場の透明な天井」とバーターになっているのならば、女性の職場における「アファーマティブアクション」と同様、男性の家庭における「アファーマティブアクション」(=(専業)主夫への優遇策)みたいなものも必要になってくるのではないかな、と思ったりします。